りょうごんきょう】巻一


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 > 2.七処徴心


 しちしょちょうしん


シャ様はアーナンダに言いました。

佛告阿難:[SG0102001]

「私たちは血縁の親族(アーナンダがおシャ様の従弟)であり、兄弟のように親しい。

「汝我同氣,情均天倫,[SG0102002]

お前が最初にほっしんした時、私から何を見たゆえ、たちまち世間の深いじょうあいを捨て去ったのか?」

當初發心,於我法中見何勝相? 頓捨世間深重恩愛!」[SG0102003]


アーナンダはおシャ様に答えました。

阿難白佛:[SG0102004]

そん様のさんじゅうそうの御姿はぜつみょうで、すぐれて、のように澄んでおられます。

「我見如來三十二相勝妙殊絕,形體映徹猶如瑠璃。[SG0102005]

そちらの御姿を拝見し、私はこう存じておりました。

常自思惟:[SG0102006]

そん様の御姿は愛欲から誕生されたものではございません。なぜかというと、

『此相非是欲愛所生。何以故? [SG0102007]

愛欲の気は粗く、汚濁し、愛欲の身は、生臭さと悪臭がして、膿と血が混じり合い、

欲氣麁濁,腥臊交遘,膿血雜亂,[SG0102008]

しょうじょうで、みょうめい(妙は何とも言えないほど美しいさま。明は明らかなさま)で、すぐれた紫金色に輝くことができないからです。』

不能發生勝淨妙明紫金光聚。』[SG0102009]

私はそん様に深く憧れ、それで、そん様のもとでしゅっしたのです。」

是以渴仰,從佛剃落。」[SG0102010]


シャ様:

佛言:[SG0102011]

「いい返事だ、アーナンダよ。皆もよく聞きなさい。

「善哉! 阿難! 汝等當知:[SG0102012]

あらゆるしゅじょう(始めがないこと。無限に遠い過去)からしょうりんを絶えず続けている。

一切眾生從無始來生死相續,[SG0102013]

なぜなら、皆が自分の持っている常じゅう いつでも存在すること)の清みょう しょうじょうで明らかなさま)な真心(真正の心)をにんしきしないからだ。

皆由不知常住真心性淨明體,[SG0102014]

もうそうの心を『我』と取り違え、それは偽の心ゆえしゅじょうりんを絶えず続けているのだ。

用諸妄想,此想不真故有輪轉。[SG0102015]

いま、皆がじょうしょうとうがくというしんじちの明るいほんしょうを復元したいなら、

汝今欲研無上菩提真發明性,[SG0102016]

まずじきしんすなな心)を抱いて私の質問をよく考えなさい。

應當直心詶我所問。[SG0102017]

じっぽうにょらいたちが皆同じ聖道によってしょうりんから解放された。その聖道はじきしんなのである。

十方如來同一道故出離生死,皆以直心! [SG0102018]

究極のきょうに達するまで、いつでも心と口を正し、曲げたことがない。これがにょらいだつの道である。

心言直故,如是乃至終始地位,中間永無諸委曲相。[SG0102019]


アーナンダよ! 答えよ、

阿難! 我今問汝,[SG0102020]

お前はにょらいさんじゅうそうを見たゆえにほっしんしただろう?

當汝發心緣於如來三十二相,[SG0102021]

では、お前はいったい何を通してにょらいさんじゅうそうを見たのか?

將何所見? [SG0102022]

憧れの気持ちがどこから起こったのか?」

誰為愛樂?」[SG0102023]


アーナンダ:

阿難白佛言:[SG0102024]

そん様! 私の心と目です。

「世尊! 如是愛樂,用我心目。[SG0102025]

目でそん様のすぐれた姿を拝見し、そして心からそん様に憧れております。

由目觀見如來勝相,心生愛樂,[SG0102026]

それで、私はりんから解放しようとほっしんしたのです。」

故我發心,願捨生死。」[SG0102027]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102028]

「お前の言うとおり、お前の気持ち、その起源は心と目であろう?

「如汝所說真所愛樂因于心目,[SG0102029]

もし心と目の所在を知らなければ、塵労(心を疲れさせるろくじん)から解放されることはできない。

若不識知心目所在,則不能得降伏塵勞。[SG0102030]

たとえば、ある国は常に山賊に侵略される。

譬如國王為賊所侵,[SG0102031]

軍隊を派遣して山賊を討つなら、山賊の巣窟がどこにあるかを知らなければならないだろう?

發兵討除,是兵要當知賊所在。[SG0102032]

これと同じく、心と目はりんの元凶である。

使汝流轉,心目為咎;[SG0102033]

では、心と目はいったいどこに位するのか?」

吾今問汝,唯心與目,今何所在?」[SG0102034]


 一、身の内


アーナンダ:

阿難白佛言:[SG0102035]

そん様。

「世尊! [SG0102036]

あらゆる世間の十種類のしゅじょう、皆のしきしん(八識が集まっている心)は体内に位するでしょう?

一切世間十種異生,同將識心居在身內;[SG0102037]

そん様のご青れん目(目を青れんに喩える)はお顔の前に付き、

縱觀如來青蓮花眼,亦在佛面。[SG0102038]

私の目も、顔の前に付いております。

我今觀此浮根四塵,秖在我面;[SG0102039]

このしきしんに至っては、確かに体内に存在すると存じます。」

如是識心,實居身內。」[SG0102040]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102041]

「お前はいま講堂に座っている。では、ここから見ると、りんはどこに位するのか?」

「汝今現坐如來講堂,觀祇陀林今何所在?」[SG0102042]


アーナンダ:

[SG0102043]

そん様。このしょうじょうな大講堂はぎっどくおんに位し、すなわちりんは講堂の外に位します。」

「世尊! 此大重閣清淨講堂在給孤園,今祇陀林實在堂外。」[SG0102044]


シャ様:

[SG0102045]

「アーナンダよ。お前はこの講堂の中で最初に何が見えるのか?」

「阿難! 汝今堂中先何所見?」[SG0102046]


アーナンダ:

[SG0102047]

そん様。私がこの講堂の中で最初に見えるのはそん様でございます。

「世尊! 我在堂中先見如來,[SG0102048]

次に講堂の中にいる人々が見え、そして、外を見ると園林が見えます。」

次觀大眾,如是外望方矚林園。」[SG0102049]


シャ様:

[SG0102050]

「アーナンダよ。なぜこの講堂の中にいても外に位する園林が見られるのか?」

「阿難! 汝矚林園因何有見?」[SG0102051]


アーナンダ:

[SG0102052]

そん様。この大講堂の戸と窓が大きく開いておるゆえ、私は堂内にいても、遠くに園林が見られるのです。」

「世尊! 此大講堂戶牖開豁,故我在堂得遠瞻見。」[SG0102053]


その時、おシャ様は会衆の中で金色に輝く腕(にょらいさんじゅうそうの一つ。身体・が金色をしている)を伸ばしてアーナンダの頭を撫で、アーナンダと会衆に告げました。

爾時,世尊在大眾中,舒金色臂摩阿難頂,告示阿難及諸大眾:[SG0102054]

だいぶっちょうしゅりょうごん王と呼ばれるさんがあり、六度まんぎょう(六みつの万種の修行)のすべてのどくを含んでいる。

「有三摩提,名大佛頂首楞嚴王具足萬行、[SG0102055]

じっぽうにょらいたちはこのほうもん(仏法)によってしょうげんで、妙なるがんに達したのだ。皆よく聞きなさい!」

十方如來一門超出妙莊嚴路,汝今諦聽!」[SG0102056]


アーナンダはおシャ様にちょうらいし、へいふくしてにょらいの教えを受けました。

阿難頂禮,伏受慈旨。[SG0102057]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102058]

「お前の言うとおり、戸と窓が大きく開いているので、講堂の内にいても、遠くに園林が見られる。

「如汝所言『身在講堂,戶牖開豁,遠矚林園』,[SG0102059]

しかし、ある人が堂内にいても、堂内にいるにょらいが見えず、ただ講堂の外にあるものだけが見られるのだ。」

亦有眾生在此堂中,不見如來見堂外者?」[SG0102060]


アーナンダ:

阿難答言:[SG0102061]

そん様。堂内にいらっしゃるそん様が見えず、堂の外にある園林や泉だけが見られるなど、それは意味をなしません。」

「世尊! 在堂不見如來,能見林泉,無有是處。」[SG0102062]


シャ様:

[SG0102063]

「アーナンダよ。お前も同じだ!

「阿難! 汝亦如是。[SG0102064]

お前の心はすべてをはっきりとかく(感覚器官を通して外界の事物や身体内部のじょうたいを知る働き)できる。

汝之心靈一切明了,[SG0102065]

もし心が本当に体内に位するならば、まず身の内部から知るはずだ。

若汝現前所明了心實在身內,爾時先合了知內身;[SG0102066]

だが、体内から外の世界を見る者は本当にいるだろうか?

頗有眾生先見身中,後觀外物? [SG0102067]

たとえ心臓が見られなくても、せめて肝臓・脾臓・胃・爪や髪の成長・筋の動き・脈の鼓動などが見られるはずだ。なぜそれらが見られないのか?

縱不能見心、肝、脾、胃、爪生、髮長、筋轉、脈搖、誠合明了,如何不知? [SG0102068]

身の内部が見られないのに、なぜ外の世界が見られるのか?

必不內知,云何知外? [SG0102069]


それゆえ、お前の言う『かくの心は体内に位する』という説は成り立たないのだ。」

是故應知,汝言『覺了能知之心住在身內』,無有是處。」[SG0102070]


 二、身の外


アーナンダはおシャ様を拝んで言いました。

阿難稽首而白佛言:[SG0102071]

「いま、私はそん様の御ほうおん(説法)をはいちょうし、確かに、心は身の外に位すると承知しました。なぜかというと、

「我聞如來如是法音,悟知我心實居身外。所以者何? [SG0102072]

たとえば、しつないに灯りを点ければ、光はまず部屋の内部を照らします。その後、光線は戸を通って室外に及ぶのです。

譬如燈光然於室中,是燈必能先照室內,從其室門後及庭際。[SG0102073]

あらゆるしゅじょうは身の内部が見られず、ただ身の外の世界だけが見られ、

一切眾生不見身中獨見身外,[SG0102074]

これは戸外の光がしつないに及ばないのと同様であると存じます。

亦如燈光居在室外,不能照室。[SG0102075]

この理は明らかであり、疑問の余地はございません。これは正しいでしょうか?」

是義必明,將無所惑;同佛了義,得無妄耶?」[SG0102076]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102077]

「ここにいるたちが先ほど私についてシャエイジョウたくはつし、いまオンショウジャに帰ったところだ。私はすでに食事を済ませた。

「是諸比丘,適來從我室羅筏城循乞摶食,歸祇陀林,我已宿齋。[SG0102078]

どう思うか? ただ一人のが食事をし、他のたちは共にまんぷくになるだろうか?」

汝觀比丘一人食時,諸人飽不?」[SG0102079]


アーナンダ:

阿難答言:[SG0102080]

「いいえ。そん様。それはできません。なぜかというと、

「不也,世尊! 何以故? [SG0102081]

ここにいるたちは皆カンであっても、身と命は別々です。

是諸比丘雖阿羅漢,軀命不同,[SG0102082]

一人が食事をしたことで、全員がまんぷくになるわけはございません。」

云何一人能令眾飽?」[SG0102083]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102084]

「もしお前の言うように、かくの心が本当に身の外に位するならば、身と心は分離して互いに関係がないことになってしまう。

「若汝覺了知見之心,實在身外,身心相外,自不相干。[SG0102085]

それでは、身は心の知ることを知らず、また、心は身の感覚も知らないはずだ。

則心所知,身不能覺,覺在身際,心不能知。[SG0102086]

いま私が綿めん手(綿めんはインドの木が生じる綿。手を柔らかい綿に喩える。にょらいさんじゅうそうの一つ)をお前に示し、

我今示汝兜羅綿手,[SG0102087]

お前の目がこれを見た時、心は知るのか?」

汝眼見時,心分別不?」[SG0102088]


アーナンダ:

阿難答言:[SG0102089]

「そのとおりです。そん様。」

「如是,世尊!」[SG0102090]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102091]

「もし心と身が互いのことを知っているというならば、なぜ心は身の外に位すると言えるのか?

「若相知者,云何在外? [SG0102092]

それゆえ、お前の言う『かくの心は身の外に位する』という説は成り立たないのだ。」

是故應知,汝言『覺了能知之心住在身外』,無有是處。」[SG0102093]


 三、せんこん


アーナンダ:

阿難白佛言:[SG0102094]

そん様。そん様のおっしゃるとおり、身の内部が見られないゆえ、心は体内に位するのではありません。

「世尊! 如佛所言『不見內故,不居身內;[SG0102095]

また、心と身が互いのことを知ることができて分離しないゆえ、心は身の外に位するのでもありません。

身心相知,不相離故,不在身外』,[SG0102096]

私がもう一度拝察し、心はどこに位するか承知しました。」

我今思惟,知在一處。」[SG0102097]


シャ様:

佛言:[SG0102098]

「では、心はどこに位するか?」

「處今何在?」[SG0102099]


アーナンダ:

阿難言:[SG0102100]

「このかくの心は身の内部が見られず、しかし外界が見られます。

「此了知心既不知內而能見外,[SG0102101]

私の推論によれば、心は実はろっこんの中に潜在していると存じます。

如我思忖,潛伏根裏。[SG0102102]

たとえば、ある人はの椀で両目を覆う。

猶如有人取瑠璃椀,合其兩眼,[SG0102103]

椀は目を覆っているが、障りになりません。目はあいかわらず外界が見られるのです。

雖有物合而不留礙,彼根隨見隨即分別。[SG0102104]

身の内部が見られない原因はかくの心が根の中に潜在しているからです。

然我覺了能知之心不見內者,為在根故;[SG0102105]

また、外界がはっきりと見られる原因も心が根の中に潜在しているからです。」

分明矚外無障礙者,潛根內故。」[SG0102106]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102107]

「お前は、『の椀で両目を覆うように、心は根の中に潜在している』と言ったが、

「如汝所言『潛根內者猶如瑠璃』,[SG0102108]

では、の椀で両目を覆って外界を見る時、その椀も同時に視界に入るだろうか?」

彼人當以瑠璃籠眼,當見山河,見瑠璃不?」[SG0102109]


アーナンダ:

[SG0102110]

「おっしゃるとおりです。そん様。

「如是,世尊! [SG0102111]

の椀で両目を覆って外界を見る時、その椀も同時に視界に入ります。」

是人當以瑠璃籠眼,實見瑠璃。」[SG0102112]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102113]

「もしの椀で両目を覆うように、心が根の中に潜在しているというならば、なぜ外界を見る時、自分の目が見えないのか?

「汝心若同瑠璃合者,當見山河,何不見眼? [SG0102114]

もし自分の目が視界に入るならば、目は塵境(にんしき対象)になってしまう。

若見眼者,眼即同境,[SG0102115]

それでは、私たちはいったい何によって自分の目を見るのか?

不得成隨;[SG0102116]

逆に、自分の目が視界に入らないならば、なぜ心が根の中に潜在していると言えるのか?

若不能見,云何說言『此了知心潛在根內如瑠璃合』? [SG0102117]


それゆえ、お前の言う『の椀で両目を覆うように、かくの心は根の中に潜在している』という説は成り立たないのだ。」

是故應知,汝言『覺了能知之心潛伏根裏如瑠璃合』,無有是處。」[SG0102118]


 四、内外


アーナンダ:

阿難白佛言:[SG0102119]

そん様。いま私はこのように拝察しました。

「世尊! 我今又作如是思惟:[SG0102120]

身体の内部には臓器があり、外部には眼や耳など孔があります。

『是眾生身,府藏在中,竅穴居外;[SG0102121]

隠れた内部は暗く、孔のある部位は明るいです。

有藏則暗,有竅則明。』[SG0102122]

いま私はそん様に向かい、

今我對佛,[SG0102123]

目を開けて光が見えます。これを『外界を見る』と言います。

開眼見明,名為見外;[SG0102124]

目を閉じてくらやみが見えます。これを『身の内部を見る』と言います。

閉眼見暗,名為見內。[SG0102125]

これは正しいでしょうか?」

是義云何?」[SG0102126]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102127]

「目を閉じてくらやみが見える時、そのくらやみかくの対象か、それとも、対象ではないのか?

「汝當閉眼見暗之時,此暗境界為與眼對,為不對眼? [SG0102128]

もしくらやみかくの対象であれば、くらやみは目の前に位するということになってしまう。なぜ『身の内部を見る』と言えるのか?

若與眼對,暗在眼前,云何成內? [SG0102129]

もしくらやみが見える時、これが『身の内部を見る』ということであれば、では、日・月・灯りの光のないあんしつはお前の身の内にあるのではないだろうか?

若成內者,居暗室中無日月燈,此室暗中皆汝焦府? [SG0102130]

もしくらやみかくの対象でないならば、なぜくらやみが見えるのか?

若不對者,云何成見? [SG0102131]

もし目を閉じてくらやみを見る時、目が外を向くのではなく内を向くというなら、その際に目を開ければ、光が見えると同時に自分の顔も視界に入るはずだ。

若離外見,內對所成,合眼見暗,名為身中;開眼見明,何不見面? [SG0102132]

自分の顔が視界に入らないというなら、『身の内部を見る』という説が成り立たない。

若不見面,內對不成。[SG0102133]


もし自分の顔が視界に入るならば、かくの心とげんこんくうに位するということになってしまう。なぜ『身の内部を見る』と言えるのか。

見面若成,此了知心及與眼根,乃在虛空,何成在內? [SG0102134]

もしかくの心とげんこんが本当にくうに位するならば、両者は、お前の身に属さないものになってしまう。

若在虛空,自非汝體,[SG0102135]

そうなると、いまお前の顔を見ている私も、お前になってしまうはずだ。

即應如來今見汝面,亦是汝身。[SG0102136]

さらに、もしお前の心と目が本当にくうに位するならば、身体はかくがないはずだ。

汝眼已知,身合非覺。[SG0102137]

もしお前がどうしても目と身体それぞれに心があると言い張るなら、お前が仏となる時、一人の者が二人の仏となるはずだ。

必汝執言身,眼兩覺,應有二知,即汝一身應成兩佛! [SG0102138]


それゆえ、お前の言う『くらやみを見ることが身の内部を見ることである』という説は成り立たないのだ。」

是故應知,汝言『見暗名見內』者,無有是處。」[SG0102139]


 五、ずいごう


アーナンダ:

阿難言:[SG0102140]

そん様は常にこのようにしゅソク)におっしゃいました、

「我常聞佛開示四眾:[SG0102141]

『心(または念)が起こるゆえ種々の法が生起します。法が生起するゆえ種々の心が起こります。』

『由心生故種種法生,由法生故種種心生。』[SG0102142]

私はいまこう拝察します。

我今思惟:[SG0102143]

このかくの主体は心と呼ばれます。

『即思惟體實我心性。[SG0102144]

心は塵境に付いて存在するものであり、身の内部に位するのでもなく、身の外に位するのでもなく、内と外の中間に位するのでもないです。」

隨所合處,心則隨有;亦非內、外、中間三處。』」[SG0102145]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102146]

「お前は、『法が生起するゆえ種々の心が起こり、心は塵境に付いて存在するものである』と言ったが、

「汝今說言『由法生故種種心生,隨所合處心隨有」者,[SG0102147]

なぜ形体のない心が塵境に付くことができるだろうか?

是心無體則無所合;[SG0102148]

もし形体のない心が何かに付くことができるというならば、ろくじん以外の第七塵と十八界(ろっこんろくじんろくしき)以外の第十九界が存在するということになってしまう。これは意味をなさない。

若無有體而能合者,則十九界因七塵合,是義不然。[SG0102149]

また、もし心が実体があるならば、手で身体をつまむ時、かくの心は体内から出てくるのか、それとも、身の外から体内に入るのか?

若有體者,如汝以手自挃其體,汝所知心為復內出、為從外入? [SG0102150]

もし心が体内から出てくるというならば、身の内部が視界に入るはずだ。

若復內出,還見身中;[SG0102151]

逆に、もし心が身の外から入るというならば、自分の顔が視界に入るはずだ。」

若從外來,先合見面?」[SG0102152]


アーナンダ:

阿難言:[SG0102153]

かくは目の働きです。一方、心はそれをかくするものであり、かくを持つものではないです。」

「見是其眼,心知非眼,為見非義。」[SG0102154]


シャ様:

佛言:[SG0102155]

「もし目自身が見る能力を持つというならば、部屋の戸も見ることができるはずだ。

「若眼能見,汝在室中門能見不? [SG0102156]

それに、目のある死者も見ることがあるはずだ。

則諸已死尚有眼存,應皆見物。[SG0102157]

もし死者が見ることがあるなら、なぜ死んだと言うのか? アーナンダよ!

若見物者,云何名死? 阿難! [SG0102158]

また、もしかくの心に必ず実体があるというならば、それは一つの体か、それとも複数の体か?

又汝覺了能知之心,若必有體,為復一體? 為有多體? [SG0102159]

また、心は全身に遍在するのか、それとも遍在しないのか?

今在汝身,為復遍體? 為不遍體? [SG0102160]


もし心の体が単一であれば、手で四肢の中の一つをつまむ時、四肢は同時にその接触を感じるはずだ。そうなれば、つままれた部位を知らないはずだ。

若一體者,則汝以手挃一𨈛時,四𨈛應覺;若咸覺者,挃應無在。[SG0102161]

もしつままれた部位を判別できるならば、心の体が単一であるという説は成り立たない。

若挃有所,則汝一體自不能成。[SG0102162]

逆に、もし心の体が非単一であれば、お前は複数の人になってしまう。いったいどちらこそがお前だろうか?

若多體者,則成多人。何體為汝? [SG0102163]

一方、もし心が全身に遍在するというならば、それは心の体が単一である場合と同じ矛盾を招くのだ。

若遍體者,同前所挃! [SG0102164]

もし心が全身に遍在しないというならば、同時に頭と足をつまむ時、どちらか一方だけが接触を感じるはずだ。しかし事実はそうではない。

若不遍者,當汝觸頭亦觸其足,頭有所覺,足應無知。今汝不然。[SG0102165]


それゆえ、心は塵境に付いて起こるという説は成り立たないのだ。」

是故應知,隨所合處心則隨有,無有是處。」[SG0102166]


 六、中間


アーナンダ:

阿難白佛言:[SG0102167]

そん様。かつて、そん様ともんじゅさつ様及び他のほうおう子(大さつ)様はじっそうについてお話し合いになり、そん様はこうおっしゃいました、

「世尊! 我亦聞佛與文殊等諸法王子談實相時,世尊亦言:[SG0102168]

『心は身の内に位するのでもなく、身の外に位するのでもありません。』

『心不在內,亦不在外。』[SG0102169]

いま、私はこのように拝察しました。

如我思惟:[SG0102170]

心は身の内部が見られず、心と身は互いのことを知っています。

內無所見,外不相知。[SG0102171]

身の内部が見られないゆえ、心は体内に位するのではありません。

內無知故,在內不成;[SG0102172]

また、心と身は互いのことを知っているゆえ、心が身の外に位するのでもありません。

身心相知,在外非義。[SG0102173]

同時に以上の二つのじょうきょうに合致している所が、きっと内と外の中間です。」

今相知故,復內無見,當在中間。」[SG0102174]


シャ様:

佛言:[SG0102175]

「お前の言う『中間』とは、必ず明確な位置があり、その位置は不存在ではないだろう?

「汝言中間,中必不迷,非無所在。[SG0102176]

では、中間という位置はいったいどこに位するのか? 身の外に位するのか、それとも身に位するのか?

今汝推中,中何為在? 為復在處? 為當在身? [SG0102177]

もし身に位するというなら、身の表面は中間ではなく、身の中という位置は身の内部である。では、その中間はいったいどこに位するのか?

若在身者,在邊非中,在中同內。[SG0102178]

もし中間という位置が身の外に位するというなら、その位置を確認できるのか、それともできないのか?

若在處者,為有所表? 為無所表? [SG0102179]

もし確認できないならば、その位置が存在しないに等しい。

無表同無,[SG0102180]

もし確認できるならば、そもそも中間という位置はへんではない。なぜなら、

表則無定。何以故? [SG0102181]


たとえば、ある人は中間という位置に立つ。

如人以表,表為中時,[SG0102182]

東側からその人を見れば、その人の位置は西側になってしまう。

東看則西,[SG0102183]

南側からその人を見れば、その人の位置は北側になってしまう。

南觀成北;[SG0102184]

それでは、中間という位置がこのように混乱し、心の位置も同じく混乱しているはずだ。」

表體既混,心應雜亂?」[SG0102185]


アーナンダ:

阿難言:[SG0102186]

「私の申し上げた中間はその二つの所ではございません。

「我所說中,非此二種。[SG0102187]

そん様のおっしゃるとおり、げんこんしきじんと接触した時、がんしきはその接触から生起します。

如世尊言『眼、色為緣生於眼識』,[SG0102188]

げんこんかくを持ち、しきじんかくを持っていません。

眼有分別,色塵無知,[SG0102189]

がんしきは両者の接触点という中間から生起し、つまり心は識の生起する所に存在するのです。」

識生其中則為心在。」[SG0102190]


シャ様:

佛言:[SG0102191]

「もし心が根と塵の接触点という中間に位するならば、この心は同時に根と塵の両方に存在するのか、それとも、両方にも存在しないのか?

「汝心若在根、塵之中,此之心體為復兼二? 為不兼二? [SG0102192]

もし同時に根と塵に存在するならば、根と塵の区分は模糊になるのだ。

若兼二者,物體雜亂。[SG0102193]

そもそもかくのない塵とかくある根は相反するものであり、その中間点はどんな所であろうか?

物非體知,成敵兩立,云何為中? [SG0102194]

一方、もし心が根にも塵にも存在しないとすれば、心はかくのないものでもなく、かくあるものでもないというものになってしまう。存在さえもなく、その中間は何だろうか?

兼二不成。非知不知,即無體性,中何為相? [SG0102195]


それゆえ、心は内と外の中間に位するという説は成り立たないのだ。」

是故應知,當在中間,無有是處。」[SG0102196]


 七、無着


アーナンダ:

阿難白佛言:[SG0102197]

そん様。かつて、そん様は四大弟子のマウドガリヤーヤナ、スブーティ、プールナ、シャーリプトラと共に説法し、皆は常にこのようにおっしゃいました、

「世尊! 我昔見佛與大目連、須菩提、富樓那、舍利弗四大弟子共轉法輪,常言,[SG0102198]

『このかくしきべつの心は、身の内にも、身の外にも、内と外の中間にも位せず、所在がありません。

『覺知分別心性,既不在內,亦不在外,不在中間,俱無所在;[SG0102199]

心はいっさいにも付かないものです。』

一切無著,名之為心』,[SG0102200]

では、心はいっさいにも付かないものでしょうか?」

則我無著,名為心不?」[SG0102201]


シャ様:

佛告阿難:[SG0102202]

「お前は、『このかくしきべつの心はどこにも存在しない』と言った。

「汝言『覺知分別心性俱無在』者,[SG0102203]

くう・水・陸地に存在するすべてはいっさいと呼ばれる。

世間虛空、水、陸、飛行諸所物象,名為一切。[SG0102204]

では、このいっさいにも付かない心は存在するのか、それとも存在しないのか?

汝不著者,為在為無? [SG0102205]

もし心が存在しないならば、それは『もうかく(カメの甲に毛が生えること。ウサギは角が生えること。実際には存在しないもの)』と同様であり、『付く・付かない』というじょうたいとまったく無関係になってしまう。

無則同於龜毛、兔角,云何不著? [SG0102206]

付かないじょうたいがあるなら、そのものは存在しないと言えない。

有不著者,不可名無。[SG0102207]

相を持っていないものは無であり、無ではないものは必ず相を持つ。

無相則無,非無則相;[SG0102208]

相を持つものは存在し、なぜ存在するものはいっさいにも付かないことがあるのか?

相有則在,云何無著? [SG0102209]


それゆえ、かくしきべつする心はいっさいにも付かないという説は成り立たないのだ。」

是故應知,『一切無著名覺知心』,無有是處。」[SG0102210]



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