目連
【維摩経】弟子品
マウドガリヤーヤナ尊者
そこで、お釈迦様はマハーマウドガリヤーヤナ尊者(神通第一)に言いました。
佛告大目犍連:[VK0302001]
「お前が維摩詰を見舞いに行ってきなさい。」
「汝行詣維摩詰問疾。」[VK0302002]
マハーマウドガリヤーヤナはお釈迦様に語りました。
目連白佛言:[VK0302003]
「申し訳ございません。世尊様。私はその御方を見舞うことができかねます。なぜかというと、
「世尊!我不堪任詣彼問疾。所以者何?[VK0302004]
かつて、私はヴァイシャーリー大都市に入り、
憶念我昔,入毘耶離大城,[VK0302005]
街で居士たちに仏法を説いてさしあげました。
於里巷中為諸居士說法。[VK0302006]
その時、維摩詰様がお見えになり、私に話しかけられました。
時維摩詰來謂我言:[VK0302007]
『ちょっと! マハーマウドガリヤーヤナさんよ!
『唯,大目連![VK0302008]
白衣に仏法を説くのは、お前のように説くべきではないのだ。
為白衣居士說法,不當如仁者所說。[VK0302009]
説法とは、実相のとおりに説くべきだ。
夫說法者,當如法說。[VK0302010]
仏法において衆生相(衆生が存在するという観念)はない、実相は衆生垢(誤った観念)を離れているからだ。
法無眾生,離眾生垢故;[VK0302011]
仏法において我相(我が存在するという観念)はない、実相は我垢を離れているからだ。
法無有我,離我垢故;[VK0302012]
仏法において寿者相(時間・空間が存在するという観念)はない、実相は生死を離れているからだ。
法無壽命,離生死故;[VK0302013]
仏法において人相(他人が存在するという観念。我相の相対)はない、実相は三世(過去・現在・未来)を離れているからだ。
法無有人,前後際斷故;[VK0302014]
仏法は常に静寂である、実相はあらゆる相が滅したからだ。
法常寂然,滅諸相故;[VK0302015]
仏法は相を離れている、実相はよるところがないからだ。
法離於相,無所緣故;[VK0302016]
仏法において名はない、実相は言語を離れているからだ。
法無名字,言語斷故;[VK0302017]
仏法において言説はない、実相は覚観(心がある対象を尋ねて、観察すること)を離れているからだ。
法無有說,離覺觀故;[VK0302018]
仏法において形相(形と姿)はない、実相は虚空のようであるからだ。
法無形相,如虛空故;[VK0302019]
仏法において戯論(無意味な言説)はない、そもそも実相は空であるからだ。
法無戲論,畢竟空故;[VK0302020]
仏法において我所の観念はない、実相は我所を離れているからだ。
法無我所,離我所故;[VK0302021]
仏法において区別はない、実相は諸識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の認知を離れているからだ。
法無分別,離諸識故;[VK0302022]
仏法において比較することはない、実相は相対の性質を離れているからだ。
法無有比,無相待故;[VK0302023]
仏法は因(起因・原因)に属さない、実相は縁を離れているからだ。
法不屬因,不在緣故;[VK0302024]
仏法は法性(真如の性質)と同じである、諸法に合うからだ。
法同法性,入諸法故;[VK0302025]
仏法は真如に従う、何にも従わぬからだ。
法隨於如,無所隨故;[VK0302026]
仏法は真実の中にある、どこにもあるからだ。
法住實際,諸邊不動故;[VK0302027]
仏法は動揺がない、六塵(色・声・香・味・触・法)によらぬからだ。
法無動搖,不依六塵故;[VK0302028]
仏法は去来(去ることと来ること)がない、どこにもとどまらぬからだ。
法無去來,常不住故;[VK0302029]
仏法は空・無相・無作(有為的な働きがない)に合い、
法順空,隨無相,應無作;[VK0302030]
仏法は善悪を離れていて、仏法は増減がなく、
法離好醜,法無增損,[VK0302031]
仏法は生滅がない、仏法は帰るところがなく、
法無生滅,法無所歸;[VK0302032]
仏法は眼・耳・鼻・舌・身・心を超越し、仏法には高下がなく、
法過眼耳鼻舌身心;法無高下,[VK0302033]
仏法は常に不動である。仏法はあらゆる観察と行為を離れているからだ。
法常住不動,法離一切觀行。[VK0302034]
では、マハーマウドガリヤーヤナさんよ!
唯,大目連![VK0302035]
仏法はまさにそのようなものなのに、なぜ仏法を説くことができると思うのか?
法相如是,豈可說乎?[VK0302036]
説法とは、説くことでも示すことでもなく、
夫說法者,無說無示;[VK0302037]
仏法を聴くとは、聴くことでも得ることでもないのだ。
其聽法者,無聞無得。[VK0302038]
例えば、幻術師が作り出した幻の人に説法するようなことだ。
譬如幻士,為幻人說法。[VK0302039]
まさにそのように想像して人々に説法すべきだ。
當建是意,而為說法。[VK0302040]
まず、衆生の資質は高下があると知り、衆生の資質を見極め、
當了眾生根有利鈍,善於知見無所罣礙,[VK0302041]
大慈悲の心を持って大乗を讃え、
以大悲心讚于大乘,[VK0302042]
仏の恩に報いると思い、
念報佛恩,[VK0302043]
三宝を世間に断絶させない、
不斷三寶,[VK0302044]
そのようにしてから、衆生に説法しよう。』
然後說法。』[VK0302045]
維摩詰様がこのご教示をお説きになった時、
維摩詰說是法時,[VK0302046]
八百人の居士は阿耨多羅三藐三菩提心を発しました。
八百居士發阿耨多羅三藐三菩提心。[VK0302047]
私は維摩詰様のような弁才がないゆえ、その御方を見舞うことができかねます。」
我無此辯,是故不任詣彼問疾。」[VK0302048]
【維摩経】弟子品
マウドガリヤーヤナ尊者
そこで、お釈迦様はマハーマウドガリヤーヤナ尊者(神通第一)に言いました。
佛告大目犍連:[VK0302001]
「お前が維摩詰を見舞いに行ってきなさい。」
「汝行詣維摩詰問疾。」[VK0302002]
マハーマウドガリヤーヤナはお釈迦様に語りました。
目連白佛言:[VK0302003]
「申し訳ございません。世尊様。私はその御方を見舞うことができかねます。なぜかというと、
「世尊!我不堪任詣彼問疾。所以者何?[VK0302004]
かつて、私はヴァイシャーリー大都市に入り、
憶念我昔,入毘耶離大城,[VK0302005]
街で居士たちに仏法を説いてさしあげました。
於里巷中為諸居士說法。[VK0302006]
その時、維摩詰様がお見えになり、私に話しかけられました。
時維摩詰來謂我言:[VK0302007]
『ちょっと! マハーマウドガリヤーヤナさんよ!
『唯,大目連![VK0302008]
白衣に仏法を説くのは、お前のように説くべきではないのだ。
為白衣居士說法,不當如仁者所說。[VK0302009]
説法とは、実相のとおりに説くべきだ。
夫說法者,當如法說。[VK0302010]
仏法において衆生相(衆生が存在するという観念)はない、実相は衆生垢(誤った観念)を離れているからだ。
法無眾生,離眾生垢故;[VK0302011]
仏法において我相(我が存在するという観念)はない、実相は我垢を離れているからだ。
法無有我,離我垢故;[VK0302012]
仏法において寿者相(時間・空間が存在するという観念)はない、実相は生死を離れているからだ。
法無壽命,離生死故;[VK0302013]
仏法において人相(他人が存在するという観念。我相の相対)はない、実相は三世(過去・現在・未来)を離れているからだ。
法無有人,前後際斷故;[VK0302014]
仏法は常に静寂である、実相はあらゆる相が滅したからだ。
法常寂然,滅諸相故;[VK0302015]
仏法は相を離れている、実相はよるところがないからだ。
法離於相,無所緣故;[VK0302016]
仏法において名はない、実相は言語を離れているからだ。
法無名字,言語斷故;[VK0302017]
仏法において言説はない、実相は覚観(心がある対象を尋ねて、観察すること)を離れているからだ。
法無有說,離覺觀故;[VK0302018]
仏法において形相(形と姿)はない、実相は虚空のようであるからだ。
法無形相,如虛空故;[VK0302019]
仏法において戯論(無意味な言説)はない、そもそも実相は空であるからだ。
法無戲論,畢竟空故;[VK0302020]
仏法において我所の観念はない、実相は我所を離れているからだ。
法無我所,離我所故;[VK0302021]
仏法において区別はない、実相は諸識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の認知を離れているからだ。
法無分別,離諸識故;[VK0302022]
仏法において比較することはない、実相は相対の性質を離れているからだ。
法無有比,無相待故;[VK0302023]
仏法は因(起因・原因)に属さない、実相は縁を離れているからだ。
法不屬因,不在緣故;[VK0302024]
仏法は法性(真如の性質)と同じである、諸法に合うからだ。
法同法性,入諸法故;[VK0302025]
仏法は真如に従う、何にも従わぬからだ。
法隨於如,無所隨故;[VK0302026]
仏法は真実の中にある、どこにもあるからだ。
法住實際,諸邊不動故;[VK0302027]
仏法は動揺がない、六塵(色・声・香・味・触・法)によらぬからだ。
法無動搖,不依六塵故;[VK0302028]
仏法は去来(去ることと来ること)がない、どこにもとどまらぬからだ。
法無去來,常不住故;[VK0302029]
仏法は空・無相・無作(有為的な働きがない)に合い、
法順空,隨無相,應無作;[VK0302030]
仏法は善悪を離れていて、仏法は増減がなく、
法離好醜,法無增損,[VK0302031]
仏法は生滅がない、仏法は帰るところがなく、
法無生滅,法無所歸;[VK0302032]
仏法は眼・耳・鼻・舌・身・心を超越し、仏法には高下がなく、
法過眼耳鼻舌身心;法無高下,[VK0302033]
仏法は常に不動である。仏法はあらゆる観察と行為を離れているからだ。
法常住不動,法離一切觀行。[VK0302034]
では、マハーマウドガリヤーヤナさんよ!
唯,大目連![VK0302035]
仏法はまさにそのようなものなのに、なぜ仏法を説くことができると思うのか?
法相如是,豈可說乎?[VK0302036]
説法とは、説くことでも示すことでもなく、
夫說法者,無說無示;[VK0302037]
仏法を聴くとは、聴くことでも得ることでもないのだ。
其聽法者,無聞無得。[VK0302038]
例えば、幻術師が作り出した幻の人に説法するようなことだ。
譬如幻士,為幻人說法。[VK0302039]
まさにそのように想像して人々に説法すべきだ。
當建是意,而為說法。[VK0302040]
まず、衆生の資質は高下があると知り、衆生の資質を見極め、
當了眾生根有利鈍,善於知見無所罣礙,[VK0302041]
大慈悲の心を持って大乗を讃え、
以大悲心讚于大乘,[VK0302042]
仏の恩に報いると思い、
念報佛恩,[VK0302043]
三宝を世間に断絶させない、
不斷三寶,[VK0302044]
そのようにしてから、衆生に説法しよう。』
然後說法。』[VK0302045]
維摩詰様がこのご教示をお説きになった時、
維摩詰說是法時,[VK0302046]
八百人の居士は阿耨多羅三藐三菩提心を発しました。
八百居士發阿耨多羅三藐三菩提心。[VK0302047]
私は維摩詰様のような弁才がないゆえ、その御方を見舞うことができかねます。」
我無此辯,是故不任詣彼問疾。」[VK0302048]