如来の種

維摩経ゆいまきょう仏道品ぶつどうほん


ホーム > 維摩経

 > 08.仏道品

 > 2.如来の種


 にょらいの種


次はゆいきつもんじゅさつに問いました。

於是維摩詰問文殊師利:[VK0802001]

「何がにょらいの種だろうか?」

「何等為如來種?」[VK0802002]


もんじゅさつ

文殊師利言:[VK0802003]

「身はにょらいの種です。

「有身為種,[VK0802004]

みょう・愛はにょらいの種です。

無明有愛為種,[VK0802005]

さんどくにょらいの種です。

貪恚癡為種,[VK0802006]

てんとうじょうを常と逆に理解し、苦しみを楽しみと逆に理解し、を我と逆に理解し、じょうを浄と逆に理解する)はにょらいの種です。

四顛倒為種,[VK0802007]

がい(心を覆ってぜんほうを生じさせない五種のぼんのう)はにょらいの種です。

五蓋為種,[VK0802008]

六入(眼・耳・鼻・舌・身・意に対する六種の感覚)はにょらいの種です。

六入為種,[VK0802009]

しちしきじょ(識が安住する七つのところ)はにょらいの種です。

七識處為種,[VK0802010]

はちじゃ法はにょらいの種です。

八邪法為種,[VK0802011]

のうじょ(つまりけつ。愛・ 慢・みょう・見 しゅ しつ けん)はにょらいの種です。

九惱處為種,[VK0802012]

ぜんにょらいの種です。

十不善道為種:[VK0802013]

簡単に言えば、六十二のじゃけん及びいっさいぼんのうは皆にょらいの種なのです。」

以要言之,六十二見及一切煩惱,皆是佛種。」[VK0802014]


ゆいきつ

曰:[VK0802015]

「これはどういう理由か?」

「何謂也?」[VK0802016]


もんじゅさつ

答曰:[VK0802017]

「もしきょうからしょうはん)に入ったら、

「若見無為入正位者,[VK0802018]

のくさんみゃくさんだいしんを発することができないからです(の意志が起こせない)。

不能復發阿耨多羅三藐三菩提心。[VK0802019]

例えば蓮は低地の湿った汚泥では生長できますが、高原の陸地では生長できません。

譬如高原陸地不生蓮華,卑濕淤泥乃生此華;[VK0802020]

そのように、きょうからしょうに入った者は、

如是見無為法入正位者,[VK0802021]

(もっと高いきょうに至るように)もう一度修行の道へ進むことができず、

終不復能生於佛法,[VK0802022]

ぼんのうの泥沼の中にいるしゅじょうは仏法を学びたいのです。

煩惱泥中,乃有眾生起佛法耳![VK0802023]


また、例えば植物の種を天上に植えても、芽は出ないに決まっています。

又如殖種於空,終不得生,[VK0802024]

もしふん尿にょうの肥料が含まれている土壌に植えれば、よく育つことでしょう。

糞壤之地,乃能滋茂;[VK0802025]

そのように、きょうからしょうに入った者は、もう一度仏法を学ぶ心を起こすことができません。

如是入無為正位者,不生佛法,[VK0802026]

たとえシュセンのように大きなけんを持っている者でも、

起於我見如須彌山,[VK0802027]

のくさんみゃくさんだいしんを発することができ、仏法を学ぶこともできるのです。

猶能發于阿耨多羅三藐三菩提心,生佛法矣![VK0802028]

それゆえ、あらゆるぼんのうにょらいの種です。

是故,當知一切煩惱為如來種。[VK0802029]


例えば、しんかいに潜り込めなければ、珍しいしんじゅが得られないように、

譬如不下巨海,不能得無價寶珠;[VK0802030]

ぼんのうの大海に入れなければ、いっさい智の宝が得られないのです。」

如是不入煩惱大海,則不能得一切智寶。」[VK0802031]


その時、マハーカーシヤパがさんたんして語りました。

爾時大迦葉歎言:[VK0802032]

「素晴らしい! 素晴らしいです! もんじゅさつ様! これはとてもいいお話です。

「善哉,善哉!文殊師利!快說此語。[VK0802033]

まさにさつ様のおっしゃるとおり、あらゆるぼんのうにょらいの種であり、

誠如所言,塵勞之疇為如來種;[VK0802034]

私たち(カン)はもはやのくさんみゃくさんだいしんを発することができかねるのです。

我等今者,不復堪任發阿耨多羅三藐三菩提心,[VK0802035]

たとえ五けんの罪を犯した者でも、仏法を学ぶ心は起こせますが、

乃至五無間罪,猶能發意生於佛法,[VK0802036]

私たちにはもう実現できないのです。

而今我等永不能發。[VK0802037]


例えば、こん(眼・耳・鼻・舌・身)にしょうがいがある者は、その五感(しき こえ こう あじ そく)の楽しみを享受できず、

譬如根敗之士,其於五欲不能復利;[VK0802038]

さまざまなぼんのうを断ち切ってしまったしょうもん(自分のきょうに満足している)は、

如是聲聞諸結斷者,[VK0802039]

また仏法から利益を得ることができず、もう永遠に仏法を求めたくないのです。

於佛法中無所復益,永不志願。[VK0802040]


それゆえ、もんじゅさつ様! 修行において、凡人は成長でき、

是故,文殊師利!凡夫於佛法有返復,[VK0802041]

しかし、しょうもんにはできないのです。なぜなら、

而聲聞無也。所以者何?[VK0802042]

凡人は仏法を聴いて、無上どうしん(最高の悟りを求める心)を起こすことができ、

凡夫聞佛法,能起無上道心,[VK0802043]

三宝とのつながりを断ち切らないのですが、

不斷三寶;[VK0802044]

しょうもんは一生をかけて仏法やじゅうりきなどを聴いても、

正使聲聞終身聞佛法、力、無畏等,[VK0802045]

永遠に無上どうしんが起こせないからです。」

永不能發無上道意。」[VK0802046]



Scroll to Top