病気の菩薩
【維摩経】文殊師利問疾品
病気の菩薩
文殊菩薩:
文殊師利言:[VK0502001]
「それより、居士のご病気は、どんな症状がありますか?」
「居士所疾為何等相?」[VK0502002]
維摩詰:
維摩詰言:[VK0502003]
「症状は無形であり、目に見えないのだ。」
「我病無形不可見。」[VK0502004]
文殊菩薩:
又問:[VK0502005]
「では、居士のご病気は、身体的な病ですか? それとも心理的な病ですか?」
「此病身合耶?心合耶?」[VK0502006]
維摩詰:
答曰:[VK0502007]
「身体的な病ではない。菩薩は身相の観念を離れているからだ。
「非身合,身相離故;[VK0502008]
また、心理的な病でもない。心が幻のようなものだからだ。」
亦非心合,心如幻故。」[VK0502009]
文殊菩薩:
又問:[VK0502010]
「では、地・水・火・風の四大元素で、居士のご病気はどの元素の病ですか?」
「地大、水大、火大、風大,於此四大,何大之病?」[VK0502011]
維摩詰:
答曰:[VK0502012]
「この病は、地元素の病ではないが、地元素を離れてもいないのだ。
「是病非地大,亦不離地大;[VK0502013]
水・火・風の元素もまた同じだ。なぜなら、
水、火、風大,亦復如是。[VK0502014]
衆生の病気は四大元素の病に属している。
而眾生病從四大起,[VK0502015]
皆が病気になったので、私もまた病気になったのだ。」
以其有病,是故我病。」[VK0502016]
文殊菩薩:
爾時文殊師利問維摩詰言:[VK0502017]
「では、菩薩はどのように病気の菩薩を慰めればいいでしょうか?」
「菩薩應云何慰喻有疾菩薩?」[VK0502018]
維摩詰:
維摩詰言:[VK0502019]
「病気の菩薩に、身の性質は無常だと言い、身を厭い離れよう(涅槃に入る)と言わぬ。
「說身無常,不說厭離於身;[VK0502020]
身は苦しみを伴っていると言い、涅槃を楽しもうと言わぬ。
說身有苦,不說樂於涅槃;[VK0502021]
身の本質は無我だが(すなわち無人・無衆生)、それでも、衆生を教化しようと言う。
說身無我,而說教導眾生;[VK0502022]
身の性質は空寂(空っぽで寂しい)だと言い、衆生はもともと寂滅であると言わぬ。
說身空寂,不說畢竟寂滅;[VK0502023]
過去の罪を懺悔しよう(過ちを改める)と言い、過去を後悔しよう(過去にとらわれている)と言わぬ。
說悔先罪,而不說入於過去;[VK0502024]
自分が病気になった経験によって病気の菩薩を慰める。
以己之疾,愍於彼疾;[VK0502025]
過去の無数の劫(きわめて長い時間の単位。一小劫は一六七九万八千年である)になめた苦しみを覚えて、
當識宿世無數劫苦,[VK0502026]
常にすべての衆生を益しようと思う。
當念饒益一切眾生;[VK0502027]
過去の善行を覚えて、常に浄命(清浄で正しい生活をする)を思う。
憶所修福,念於淨命,[VK0502028]
煩悩を起こさず、一生懸命に仏道に進む。
勿生憂惱,常起精進;[VK0502029]
医王になって衆生の病気を治す。
當作醫王,療治眾病:[VK0502030]
菩薩はまさにそのように病気の菩薩を慰め、皆を喜ばせるべきだ。」
菩薩應如是慰喻有疾菩薩,令其歡喜。」[VK0502031]
文殊菩薩:
文殊師利言:[VK0502032]
「居士! 病気の菩薩はどのように心を調伏すべきですか?」
「居士!有疾菩薩云何調伏其心?」[VK0502033]
維摩詰:
維摩詰言:[VK0502034]
「病気の菩薩はこう思うべきだ。
「有疾菩薩應作是念:[VK0502035]
『いま私の病気は、過去の妄想、転倒の観念とさまざまな煩悩に起因するが、
『今我此病,皆從前世妄想顛倒、諸煩惱生,[VK0502036]
それらのものは実は実在ではないし、病気もまた実在ではないのだ。なぜなら、
無有實法,誰受病者?所以者何?[VK0502037]
仮に四大元素の合成物を身体と呼ぶが、
四大合故,假名為身;[VK0502038]
四大元素は誰のものでもなく、身もまた我がものではないのだ。
四大無主,身亦無我。[VK0502039]
また、この病気は我相にとらわれることに起因し、
又此病起,皆由著我,[VK0502040]
それゆえ、我相に執着すべきではないのだ。』
是故於我不應生著。』[VK0502041]
そして、病の根源を知って、二度と我相と衆生相を起こさず、
既知病本,即除我想及眾生想。[VK0502042]
次のように考えるべきだ。
當起法想,應作是念:[VK0502043]
『この身はさまざまな因縁によって合成し、
『但以眾法合成此身;[VK0502044]
ただその因縁自身が生滅しているのだ(身は因縁によって変化しているものであり、自身の生滅ではない)。
起唯法起,滅唯法滅;[VK0502045]
また、因縁のおのおのの要素は互いに知らず、
又此法者各不相知,[VK0502046]
皆は自然のままに出現するのだ。』
起時不言我起,滅時不言我滅。』[VK0502047]
また、病気の菩薩は、前の考えを超越するようにこう考えるべきだ。
彼有疾菩薩為滅法想,當作是念:[VK0502048]
『前の考えも同じ転倒だ。
『此法想者,亦是顛倒,[VK0502049]
転倒はつまり大患(重大な問題に致すこと)であり、私はその考えを離れなければならないのだ。』
顛倒者是即大患,我應離之。』[VK0502050]
では、離れるとはどういうことか?
云何為離?[VK0502051]
それは我・我所を離れるのだ。
離我、我所。[VK0502052]
我・我所を離れるとはどういうことか?
云何離我、我所?[VK0502053]
それは二法(相対の概念)を離れるのだ。
謂離二法。[VK0502054]
二法を離れるとはどういうことか?
云何離二法?[VK0502055]
それは内外(我・他)を区別せず、諸法が平等であると理解するのだ。
謂不念內外,諸法行於平等。[VK0502056]
では、平等とはどういうことか?
云何平等?[VK0502057]
それは我と涅槃が等しいのだ。なぜなら、
謂我等、涅槃等。所以者何?[VK0502058]
我と涅槃、両者も空だからだ。
我及涅槃,此二皆空。[VK0502059]
空とは何が空か?
以何為空?[VK0502060]
それはただ名がある(本物が存在しない)ゆえに両者も空なのだ。
但以名字故空。[VK0502061]
我と涅槃は判別の基準がなく、
如此二法,無決定性,[VK0502062]
そのように平等の境地に至り、他の病(誤った観念)が残っておらず、
得是平等,無有餘病,[VK0502063]
ただ空の病(空があるという観念に執着すること)が残り、
唯有空病;[VK0502064]
それでも、空の病もまた空なのだ。
空病亦空。[VK0502065]
それで、病気の菩薩は何も感じないかのように感じて、
是有疾菩薩以無所受而受諸受,[VK0502066]
修行が円満になってしまう前に、覚受(感覚・感受)を滅して涅槃に入ることをしないのだ。
未具佛法,亦不滅受而取證也。[VK0502067]
身は苦しみを伴っていても、悪趣の世界にいる衆生に同情し、大慈悲の心を起こす。
設身有苦,念惡趣眾生,起大悲心。[VK0502068]
私はすでに自分の心を調伏したが、すべての衆生を済度すべきなのだ。
我既調伏,亦當調伏一切眾生;[VK0502069]
仏法を利用して衆生の病を治し、
但除其病,而不除法,[VK0502070]
病の根源を断ち切るように衆生を教え導こう。
為斷病本而教導之。[VK0502071]
では、病の根源は何だろうか?
何謂病本?[VK0502072]
それは攀縁だ。病(妄想)は攀縁から起こるのだ。
謂有攀緣,從有攀緣,則為病本。[VK0502073]
では、心は何に攀縁をするか?
何所攀緣?[VK0502074]
それは三界の物事なのだ。
謂之三界。[VK0502075]
では、どうやって攀縁を断ち切るか?
云何斷攀緣?[VK0502076]
無所得を悟ることによって攀縁を断ち切るのだ。
以無所得,[VK0502077]
もし無所得を悟ったら、攀縁のことをせぬ。
若無所得,則無攀緣。[VK0502078]
では、無所得の境地はどんなことだろうか?
何謂無所得?[VK0502079]
それは二見を離れるのだ。
謂離二見——[VK0502080]
二見とはどういうことだろうか?
何謂二見?[VK0502081]
それは内見(我)と外見(他)だ。
謂內見、外見——[VK0502082]
内外を区別しないゆえに、得られるものがないのだ。
是無所得。[VK0502083]
文殊菩薩よ! 病気の菩薩はそのように心を調伏し、
文殊師利!是為有疾菩薩調伏其心,[VK0502084]
さらに衆生の老い・病・死の苦しみを断ち切る。
為斷老病死苦,[VK0502085]
これが菩薩の菩提心なのだ。
是菩薩菩提。[VK0502086]
もしそうでなければ、その悟りは、智慧のないと呼ばれるのだ。
若不如是,己所修治,為無慧利。[VK0502087]
例えば、強敵を破ることこそ勇気があると言われるように、
譬如勝怨,乃可為勇。[VK0502088]
自分及び衆生の老い・病・死の苦しみを共に断ち切る人が、菩薩というものなのだ。」
如是兼除老病死者,菩薩之謂也。[VK0502089]
【維摩経】文殊師利問疾品
病気の菩薩
文殊菩薩:
文殊師利言:[VK0502001]
「それより、居士のご病気は、どんな症状がありますか?」
「居士所疾為何等相?」[VK0502002]
維摩詰:
維摩詰言:[VK0502003]
「症状は無形であり、目に見えないのだ。」
「我病無形不可見。」[VK0502004]
文殊菩薩:
又問:[VK0502005]
「では、居士のご病気は、身体的な病ですか? それとも心理的な病ですか?」
「此病身合耶?心合耶?」[VK0502006]
維摩詰:
答曰:[VK0502007]
「身体的な病ではない。菩薩は身相の観念を離れているからだ。
「非身合,身相離故;[VK0502008]
また、心理的な病でもない。心が幻のようなものだからだ。」
亦非心合,心如幻故。」[VK0502009]
文殊菩薩:
又問:[VK0502010]
「では、地・水・火・風の四大元素で、居士のご病気はどの元素の病ですか?」
「地大、水大、火大、風大,於此四大,何大之病?」[VK0502011]
維摩詰:
答曰:[VK0502012]
「この病は、地元素の病ではないが、地元素を離れてもいないのだ。
「是病非地大,亦不離地大;[VK0502013]
水・火・風の元素もまた同じだ。なぜなら、
水、火、風大,亦復如是。[VK0502014]
衆生の病気は四大元素の病に属している。
而眾生病從四大起,[VK0502015]
皆が病気になったので、私もまた病気になったのだ。」
以其有病,是故我病。」[VK0502016]
文殊菩薩:
爾時文殊師利問維摩詰言:[VK0502017]
「では、菩薩はどのように病気の菩薩を慰めればいいでしょうか?」
「菩薩應云何慰喻有疾菩薩?」[VK0502018]
維摩詰:
維摩詰言:[VK0502019]
「病気の菩薩に、身の性質は無常だと言い、身を厭い離れよう(涅槃に入る)と言わぬ。
「說身無常,不說厭離於身;[VK0502020]
身は苦しみを伴っていると言い、涅槃を楽しもうと言わぬ。
說身有苦,不說樂於涅槃;[VK0502021]
身の本質は無我だが(すなわち無人・無衆生)、それでも、衆生を教化しようと言う。
說身無我,而說教導眾生;[VK0502022]
身の性質は空寂(空っぽで寂しい)だと言い、衆生はもともと寂滅であると言わぬ。
說身空寂,不說畢竟寂滅;[VK0502023]
過去の罪を懺悔しよう(過ちを改める)と言い、過去を後悔しよう(過去にとらわれている)と言わぬ。
說悔先罪,而不說入於過去;[VK0502024]
自分が病気になった経験によって病気の菩薩を慰める。
以己之疾,愍於彼疾;[VK0502025]
過去の無数の劫(きわめて長い時間の単位。一小劫は一六七九万八千年である)になめた苦しみを覚えて、
當識宿世無數劫苦,[VK0502026]
常にすべての衆生を益しようと思う。
當念饒益一切眾生;[VK0502027]
過去の善行を覚えて、常に浄命(清浄で正しい生活をする)を思う。
憶所修福,念於淨命,[VK0502028]
煩悩を起こさず、一生懸命に仏道に進む。
勿生憂惱,常起精進;[VK0502029]
医王になって衆生の病気を治す。
當作醫王,療治眾病:[VK0502030]
菩薩はまさにそのように病気の菩薩を慰め、皆を喜ばせるべきだ。」
菩薩應如是慰喻有疾菩薩,令其歡喜。」[VK0502031]
文殊菩薩:
文殊師利言:[VK0502032]
「居士! 病気の菩薩はどのように心を調伏すべきですか?」
「居士!有疾菩薩云何調伏其心?」[VK0502033]
維摩詰:
維摩詰言:[VK0502034]
「病気の菩薩はこう思うべきだ。
「有疾菩薩應作是念:[VK0502035]
『いま私の病気は、過去の妄想、転倒の観念とさまざまな煩悩に起因するが、
『今我此病,皆從前世妄想顛倒、諸煩惱生,[VK0502036]
それらのものは実は実在ではないし、病気もまた実在ではないのだ。なぜなら、
無有實法,誰受病者?所以者何?[VK0502037]
仮に四大元素の合成物を身体と呼ぶが、
四大合故,假名為身;[VK0502038]
四大元素は誰のものでもなく、身もまた我がものではないのだ。
四大無主,身亦無我。[VK0502039]
また、この病気は我相にとらわれることに起因し、
又此病起,皆由著我,[VK0502040]
それゆえ、我相に執着すべきではないのだ。』
是故於我不應生著。』[VK0502041]
そして、病の根源を知って、二度と我相と衆生相を起こさず、
既知病本,即除我想及眾生想。[VK0502042]
次のように考えるべきだ。
當起法想,應作是念:[VK0502043]
『この身はさまざまな因縁によって合成し、
『但以眾法合成此身;[VK0502044]
ただその因縁自身が生滅しているのだ(身は因縁によって変化しているものであり、自身の生滅ではない)。
起唯法起,滅唯法滅;[VK0502045]
また、因縁のおのおのの要素は互いに知らず、
又此法者各不相知,[VK0502046]
皆は自然のままに出現するのだ。』
起時不言我起,滅時不言我滅。』[VK0502047]
また、病気の菩薩は、前の考えを超越するようにこう考えるべきだ。
彼有疾菩薩為滅法想,當作是念:[VK0502048]
『前の考えも同じ転倒だ。
『此法想者,亦是顛倒,[VK0502049]
転倒はつまり大患(重大な問題に致すこと)であり、私はその考えを離れなければならないのだ。』
顛倒者是即大患,我應離之。』[VK0502050]
では、離れるとはどういうことか?
云何為離?[VK0502051]
それは我・我所を離れるのだ。
離我、我所。[VK0502052]
我・我所を離れるとはどういうことか?
云何離我、我所?[VK0502053]
それは二法(相対の概念)を離れるのだ。
謂離二法。[VK0502054]
二法を離れるとはどういうことか?
云何離二法?[VK0502055]
それは内外(我・他)を区別せず、諸法が平等であると理解するのだ。
謂不念內外,諸法行於平等。[VK0502056]
では、平等とはどういうことか?
云何平等?[VK0502057]
それは我と涅槃が等しいのだ。なぜなら、
謂我等、涅槃等。所以者何?[VK0502058]
我と涅槃、両者も空だからだ。
我及涅槃,此二皆空。[VK0502059]
空とは何が空か?
以何為空?[VK0502060]
それはただ名がある(本物が存在しない)ゆえに両者も空なのだ。
但以名字故空。[VK0502061]
我と涅槃は判別の基準がなく、
如此二法,無決定性,[VK0502062]
そのように平等の境地に至り、他の病(誤った観念)が残っておらず、
得是平等,無有餘病,[VK0502063]
ただ空の病(空があるという観念に執着すること)が残り、
唯有空病;[VK0502064]
それでも、空の病もまた空なのだ。
空病亦空。[VK0502065]
それで、病気の菩薩は何も感じないかのように感じて、
是有疾菩薩以無所受而受諸受,[VK0502066]
修行が円満になってしまう前に、覚受(感覚・感受)を滅して涅槃に入ることをしないのだ。
未具佛法,亦不滅受而取證也。[VK0502067]
身は苦しみを伴っていても、悪趣の世界にいる衆生に同情し、大慈悲の心を起こす。
設身有苦,念惡趣眾生,起大悲心。[VK0502068]
私はすでに自分の心を調伏したが、すべての衆生を済度すべきなのだ。
我既調伏,亦當調伏一切眾生;[VK0502069]
仏法を利用して衆生の病を治し、
但除其病,而不除法,[VK0502070]
病の根源を断ち切るように衆生を教え導こう。
為斷病本而教導之。[VK0502071]
では、病の根源は何だろうか?
何謂病本?[VK0502072]
それは攀縁だ。病(妄想)は攀縁から起こるのだ。
謂有攀緣,從有攀緣,則為病本。[VK0502073]
では、心は何に攀縁をするか?
何所攀緣?[VK0502074]
それは三界の物事なのだ。
謂之三界。[VK0502075]
では、どうやって攀縁を断ち切るか?
云何斷攀緣?[VK0502076]
無所得を悟ることによって攀縁を断ち切るのだ。
以無所得,[VK0502077]
もし無所得を悟ったら、攀縁のことをせぬ。
若無所得,則無攀緣。[VK0502078]
では、無所得の境地はどんなことだろうか?
何謂無所得?[VK0502079]
それは二見を離れるのだ。
謂離二見——[VK0502080]
二見とはどういうことだろうか?
何謂二見?[VK0502081]
それは内見(我)と外見(他)だ。
謂內見、外見——[VK0502082]
内外を区別しないゆえに、得られるものがないのだ。
是無所得。[VK0502083]
文殊菩薩よ! 病気の菩薩はそのように心を調伏し、
文殊師利!是為有疾菩薩調伏其心,[VK0502084]
さらに衆生の老い・病・死の苦しみを断ち切る。
為斷老病死苦,[VK0502085]
これが菩薩の菩提心なのだ。
是菩薩菩提。[VK0502086]
もしそうでなければ、その悟りは、智慧のないと呼ばれるのだ。
若不如是,己所修治,為無慧利。[VK0502087]
例えば、強敵を破ることこそ勇気があると言われるように、
譬如勝怨,乃可為勇。[VK0502088]
自分及び衆生の老い・病・死の苦しみを共に断ち切る人が、菩薩というものなのだ。」
如是兼除老病死者,菩薩之謂也。[VK0502089]