燃燈仏

金剛経こんごうきょう


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 くっきょうぶん第十七


スブーティ:

爾時,須菩提白佛言:[DS1701]

そん様。ぜんりょうな男女はだいしんを発した後、

「世尊!善男子、善女人,發阿耨多羅三藐三菩提心,[DS1702]

どのようにだいしんを保つべきでしょうか? どのようにもうそうを止めるべきでしょうか?」

云何應住?云何降伏其心?」[DS1703]


シャ様:

佛告須菩提:[DS1704]

ぜんりょうな男女はだいしんを発した後、次のように考えるべきだ。

「善男子、善女人,發阿耨多羅三藐三菩提者,當生如是心:[DS1705]

『私はきっとすべてのしゅじょうだつきょうに至らせる。

『我應滅度一切眾生。[DS1706]

しかし、たとえすべてのしゅじょうだつきょうに至っても、実は私のおかげでだつきょうに至ったしゅじょうはない。』

滅度一切眾生已,而無有一眾生實滅度者。』[DS1707]

なぜそのように思う必要があるだろうか? スブーティよ!

何以故?須菩提![DS1708]


もし心がそうにんそうしゅじょうそう寿じゅしゃそうを抱けば、その人はさつではないからだ。なぜなら、

若菩薩有我相、人相、眾生相、壽者相,則非菩薩。所以者何?[DS1709]

実はだいしんを発するということはないのだ(もともとのほんしょうに戻るだけ)。

須菩提!實無有法發阿耨多羅三藐三菩提者。[DS1710]

スブーティよ! お前はどう思うか?

須菩提!於意云何?[DS1711]

かつて私はネントウブツ様から、じょうしょうとうがくに至る方法を得ただろうか?」

如來於然燈佛所,有法得阿耨多羅三藐三菩提不?」[DS1712]


スブーティ:
そん様。そんなことはありませんでした!

「不也,世尊![DS1713]

私がそん様のお教えを理解したところによると、

如我解佛所說義,[DS1714]

じょうしょうとうがくに至る直接的な方法はありません(自分で心のしんせいを悟る)。」

佛於然燈佛所,無有法得阿耨多羅三藐三菩提。」[DS1715]


シャ様:

佛言:[DS1716]

「そのとおりだ! そのとおりだ! スブーティよ! 

「如是,如是!須菩提![DS1717]

そんな直接的な方法はない。スブーティよ! 

實無有法,如來得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提![DS1718]

もしそんな方法があれば、なぜネントウブツ様はその方法を私に教えず、かえって私に、

若有法如來得阿耨多羅三藐三菩提者,然燈佛則不與我受記:[DS1719]

『お前は未来の世に必ず仏になり、仏の名はシャという』という御じゅ(未来のことを保証すること)をくださったのだろうか?

『汝於來世,當得作佛,號釋迦牟尼。』[DS1720]

実はじょうしょうとうがくに至る直接的な方法がないので、ネントウブツ様は私に御じゅをくださったのだ。

以實無有法得阿耨多羅三藐三菩提,是故然燈佛與我受記,作是言:『汝於來世,當得作佛,號釋迦牟尼。』[DS1721]


知りなさい! にょらいというのはほんらいしんせいの如しという意味だ。

何以故?如來者,即諸法如義。[DS1722]

もし誰かが、『にょらいだいしんを獲得する法がある』と言うなら、それは不正確だ。

若有人言:『如來得阿耨多羅三藐三菩提。』須菩提![DS1723]

もともと皆がだいしんを持っているので、別のところからだいしんを獲得することはないのだ。スブーティよ! 

實無有法,佛得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提![DS1724]

このじょうしょうとうがくは実在でもなく、くうきょでもない。

如來所得阿耨多羅三藐三菩提,於是中無實無虛。[DS1725]

ゆえに私は、『いっさいの法は皆仏法である(しゅじょうけいほつする可能性がある)』と言うのだ。

是故如來說:『一切法皆是佛法。』[DS1726]


よく聞きなさい。ここに言う『いっさいの法』もまた仮につけた名であり、『いっさいの法』というものはない。

須菩提!所言一切法者,即非一切法,是故名一切法。[DS1727]

スブーティよ! この言葉は正しいだろうか? 『人の身が大きい』と。」

須菩提!譬如人身長大。」[DS1728]


スブーティ:

須菩提言:[DS1729]

そん様。そん様のおっしゃるように人の身が大きいのではなく、ほっしんこそ最も大きい身なのです。」

「世尊!如來說人身長大,則為非大身,是名大身。」[DS1730]


シャ様:
「スブーティよ! さつはまさにこのようだ。

「須菩提!菩薩亦如是。[DS1731]

もしあるさつが、『私はきっとりょうしゅじょうだつきょうに至らせます』と言うなら、その人は決してさつではない(そうしゅじょうそうを抱いている)。

若作是言:『我當滅度無量眾生。』則不名菩薩。[DS1732]

その理由は何だろうか? スブーティよ!

何以故?須菩提![DS1733]

ほっしょうしんにょほんしょう)にはさつというものがなく、

實無有法名為菩薩。[DS1734]

ゆえに私は、『すべてにそうにんそうしゅじょうそう寿じゅしゃそうがない』と言うのだ。スブーティよ! 

是故佛說:『一切法無我、無人、無眾生、無壽者。』須菩提![DS1735]


もしあるさつが、『私は仏土をしょうげんにします』と言うなら、その人は決してさつではない。なぜなら、

若菩薩作是言:『我當莊嚴佛土。』是不名菩薩。[DS1736]

私の言う仏土のしょうげんは、ほっしょうしょうげんしんせい)であり、がいかんしょうげんではないからだ。スブーティよ! 

何以故?如來說莊嚴佛土者,即非莊嚴,是名莊嚴。須菩提![DS1737]

もしさつくうほうくうの義に通じれば、そのような人こそが真のさつである。」

若菩薩通達無我法者,如來說名真是菩薩。」[DS1738]


 いったいどうかんぶん第十八


シャ様:
「スブーティよ! お前はどう思うか? 私はにくがんがあるだろうか?」

「須菩提!於意云何?如來有肉眼不?」[DS1801]


スブーティ:
「はい。そん様はごにくがんがおありです。」

「如是,世尊!如來有肉眼。」[DS1802]


シャ様:
「では、私はてんがん(天界が見える目)があるだろうか?」

「須菩提!於意云何?如來有天眼不?」[DS1803]


スブーティ:
「はい。そん様はごてんがんがおありです。」

「如是,世尊!如來有天眼。」[DS1804]


シャ様:
「では、私はけいがんいっさいが備わっている目)があるだろうか?」

「須菩提!於意云何?如來有慧眼不?」[DS1805]


スブーティ:
「はい。そん様はごけいがんがおありです。」

「如是,世尊!如來有慧眼。」[DS1806]


シャ様:
「それでは、私はほうげん(あらゆる法が分かる目)があるだろうか?」

「須菩提!於意云何?如來有法眼不?」[DS1807]


スブーティ:
「はい。そん様はごほうげんがおありです。」

「如是,世尊!如來有法眼。」[DS1808]


シャ様:
「それでは、私はぶっげん(仏のが備わっている目。ほうかいたいしょうだいえんきょうびょうどうしょうみょうかんざっじょう)があるだろうか?」

「須菩提!於意云何?如來有佛眼不?」[DS1809]


スブーティ:
「はい。そん様はごぶっげんがおありです。」

「如是,世尊!如來有佛眼。」[DS1810]


シャ様:
「スブーティよ! 私はガンジス河にある砂を砂と呼んだだろうか?」

「須菩提!於意云何?恒河中所有沙,佛說是沙不?」[DS1811]


スブーティ:「はい。そん様は、『それらは砂だ』とおっしゃいました。」

「如是,世尊!如來說是沙。」[DS1812]


シャ様:
「スブーティよ! お前はどう思うか?

「須菩提!於意云何?[DS1813]

ごうしゃのガンジス河にあるすべての砂のような数量(ごうしゃごうしゃ)の仏国があるが、その数量は多いだろうか?」

如一恒河中所有沙,有如是等恒河,是諸恒河所有沙數佛世界,如是寧為多不?」[DS1814]


スブーティ:
「それはとても多いです。そん様。」

「甚多,世尊!」[DS1815]


シャ様:

佛告須菩提:[DS1816]

「それらの世界はともかく、私たちの世界でも、すべてのしゅじょうのさまざまな心を、私は全部知っている。この原因は何だろうか?

「爾所國土中,所有眾生,若干種心,如來悉知。何以故?[DS1817]

それらの心は本当の心(もともと清く純正な心)ではなく、それらはもうそうの心である。なぜなら、

如來說諸心,皆為非心,是名為心。所以者何?須菩提![DS1818]

本当の心は過去の物事を追憶せず、

過去心不可得,[DS1819]

現在の物事にとらわれず、

現在心不可得,[DS1820]

未来に対してもうそうをしないからだ。」

未來心不可得。」[DS1821]


 ほうかいつうぶん第十九


シャ様:
「スブーティよ! お前はどう思うか?

「須菩提!於意云何?[DS1901]

例えば、ある人がさんぜんだいせんかいを満たすような数量の七宝を人々に施したら、そのから積んだふくとくは多いだろうか?」

若有人滿三千大千世界七寶以用布施,是人以是因緣,得福多不?」[DS1902]


スブーティ:
「はい。そん様。そのから積んだふくとくはとても多いです。」

「如是,世尊!此人以是因緣,得福甚多。」[DS1903]


シャ様:
「スブーティよ! もしふくとくかんねんにとらわれてを行えば、

「須菩提!若福德有實,[DS1904]

私は、『そのから積んだふくとくが多い』と言わない。

如來不說得福德多;[DS1905]

もしふくとくかんねんにとらわれず、ふくとくを求める心を持たずにを行うのであれば、

以福德無故,[DS1906]

私は、『そのから積んだふくとくはとても多い(ふくとくりょうである)』と言うのだ。」

如來說得福德多。」[DS1907]


 しきそうぶん第二十


シャ様:
「スブーティよ! お前はどう思うか?

「須菩提!於意云何?[DS2001]

さんじゅうそうが備わっている身を見ることによってにょらいを見る』というのは正しいか?」

佛可以具足色身見不?」[DS2002]


スブーティ:
「それは不正確です。そん様。なぜかというと、

「不也,世尊!如來不應以具足色身見。何以故?[DS2003]

にょらい様のさんじゅうそうが備わっているお体は本当の身体(ほっしん)ではないからです。」

如來說具足色身,即非具足色身,是名具足色身。」[DS2004]


シャ様:
「では、『にょらいの幻の身(じんつうの力でへんして現れる身)を見ることによってにょらいを見る』というのは正しいか?」

「須菩提!於意云何?如來可以具足諸相見不?」[DS2005]


スブーティ:
「それも不正確です。そん様。なぜかというと、

「不也,世尊!如來不應以具足諸相見。何以故?[DS2006]

にょらい様の幻の身は、幻の相であり、本当の身体ではないからです。」

如來說諸相具足,即非具足,是名諸相具足。」[DS2007]


 せつしょせつぶん第二十一


シャ様:
「スブーティよ! お前は、『そんは、自分がしゅじょうに説法したことがあると思っている』と考えてはならない。その理由は何だろうか?

「須菩提!汝勿謂如來作是念:『我當有所說法。』莫作是念,何以故?[DS2101]

もし誰かが、『にょらいしゅじょうに説法したことがある』と言うなら、その人はにょらいちゅうしょうしているのと同じで、私の教えが分かっていないのだ。スブーティよ! 

若人言:『如來有所說法。』即為謗佛,不能解我所說故。須菩提![DS2102]

そもそも仏法というものはなく、ただしゅじょうの誤ったかんねんに応じて解説し、これを説法と呼んでいるだけだ。」

說法者,無法可說,是名說法。」[DS2103]


スブーティ:

爾時,慧命須菩提白佛言:[DS2104]

そん様。将来の世代において、しゅじょうはこの仏法はないということを聞いて、信じる人がいるでしょうか?」 

「世尊!頗有眾生,於未來世,聞說是法,生信心不?」[DS2105]


シャ様:

佛言:[DS2106]

「スブーティよ! それらの人はしゅじょうでもなく、しゅじょうでないものでもない。なぜかというと、

「須菩提!彼非眾生,非不眾生。何以故?須菩提![DS2107]

そもそもしゅじょうは仏のほんしょうが備わっていて、ただ一時的に迷いのきょうおちいり、ゆえに仮にしゅじょうと呼ばれているだけだからだ。」

眾生、眾生者,如來說非眾生,是名眾生。」[DS2108]


 ほうとくぶん第二十二


スブーティ:

須菩提白佛言:[DS2201]

そん様。そん様はすでにじょうしょうとうがくきょうに至られていますが、それでも、そのきょうから本当に何も得られなかったのでしょうか?」

「世尊!佛得阿耨多羅三藐三菩提,為無所得耶?」[DS2202]


シャ様:
「そのとおりだ。スブーティよ! そのとおりだ。

「如是,如是!須菩提![DS2203]

私はじょうしょうとうがくきょうから何の法も得ず、それこそじょうしょうとうがくきょうである。」

我於阿耨多羅三藐三菩提乃至無有少法可得,是名阿耨多羅三藐三菩提。」[DS2204]


 じょうしんこうぜんぶん第二十三


シャ様:
「また、スブーティよ!

「復次,須菩提![DS2301]

すべては平等であり、こうの差別がない。それがじょうしょうとうがくきょうである。

是法平等,無有高下,是名阿耨多羅三藐三菩提;[DS2302]

そうにんそうしゅじょうそう寿じゅしゃそうはな てすべての善法を修め、それで、じょうしょうとうがくきょうに至ることができる。スブーティよ!

以無我、無人、無眾生、無壽者,修一切善法,則得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提![DS2303]

善法というのは、そもそも法にはぜんあくべつはないが、私はしゅじょうを導くために善法と呼んでいるのだ。」

所言善法者,如來說非善法,是名善法。」[DS2304]


 ふくぶん第二十四


シャ様:
「スブーティよ! 例えば、ある人はたくさんの七宝を持っていて、それらの財宝の数量はさんぜんだいせんかいにあるすべてのシュセンの体積に等しく、

「須菩提!若三千大千世界中所有諸須彌山王,如是等七寶聚,[DS2401]

その人はそれらの財宝を人々に施した。

有人持用布施;[DS2402]

一方、もしある人がこのはんにゃみつ経を読んだり、他人に説き聞かせたり、教義を実行したりするなら、それがたとえきょうてん中のよんぎょうだけでも、

若人以此般若波羅蜜經,乃至四句偈等,受持讀誦、為他人說,[DS2403]

前者のから積んだふくとくは、後者が積んだふくとくの百分の一にも、百千万億分の一にも及ばず、

於前福德百分不及一,百千萬億分,[DS2404]

どのように計算しても、たとえても、後者が積んだどくと比べることはできない。」

乃至算數譬喻所不能及。」[DS2405]



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