阿羅漢
【金剛経】
一相無相分第九
お釈迦様:
「スブーティよ! お前はどう思うか?
「須菩提!於意云何?[DS0901]
須陀洹という果位(位階)の聖者(須陀洹果。声聞乗の四果中の初果。須陀洹はすでに三界の見惑⦅誤った見解⦆を断ち切ってしまっているが、まだ思惑⦅欲望⦆がある。天界と人間界とを七度往復して生まれ変わった後、必ず阿羅漢の果位に至る)は、『私は須陀洹の果位を得た』と思うか?」
須陀洹能作是念:『我得須陀洹果。』不?」[DS0902]
スブーティ:
須菩提言:[DS0903]
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS0904]
須陀洹は入流(聖道の流れに入ること)と称されますが、心がどこにも入らず、
須陀洹名為入流,而無所入,[DS0905]
色・声・香り・味・触覚・法にとらわれないからです。
不入色、聲、香、味、觸、法,[DS0906]
これが須陀洹と称される聖者です。」
是名須陀洹。」[DS0907]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS0908]
斯陀含という果位の聖者(斯陀含果。声聞乗の四果中の二果。斯陀含は欲界の思惑が少しある。天界に転生した後、もう一度人間界に生まれ変わり、必ず解脱の境地に至る)は、『私は斯陀含の果位を得た』と思うか?」
斯陀含能作是念:『我得斯陀含果。』不?」[DS0909]
スブーティ:
須菩提言:[DS0910]
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS0911]
斯陀含は一来(もう一度人間界に生まれ変わること)と称されますが、実は心は往来(生滅)を離れているからです。
斯陀含名一往來,而實無往來,[DS0912]
これが斯陀含と称される聖者です。」
是名斯陀含。」[DS0913]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS0914]
阿那含という果位の聖者(阿那含果。声聞乗の四果中の三果。阿那含はすべての欲界の思惑を断ち切ってしまっており、欲界に生まれ変わらない。死んだ後五浄居天に転生し、そこで解脱の境地に至る)は、『私は阿那含の果位を得た』と思うか?」
阿那含能作是念:『我得阿那含果。』不?」[DS0915]
スブーティ:
須菩提言:[DS0916]
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS0917]
阿那含は不還(欲界に生まれ変わらないこと)と称されますが、実はすでに空の境地に至り、往来の観念を断ち切ってしまっているからです。
阿那含名為不來,而實無來,[DS0918]
ゆえに阿那含と称されるのです。」
是故名阿那含。」[DS0919]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS0920]
阿羅漢という果位の聖者(阿羅漢果。声聞乗の四果中の四果。阿羅漢は三界を超越した聖者であり、すでに三界の思惑を断ち切ってしまっている)は、『私は阿羅漢の果位を得た』と思うか?」
阿羅漢能作是念:『我得阿羅漢道。』不?」[DS0921]
スブーティ:
須菩提言:[DS0922]
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS0923]
阿羅漢は心が相を離れていて、実は阿羅漢というものがないからです。世尊様!
實無有法名阿羅漢。世尊![DS0924]
もし阿羅漢が、『私は阿羅漢の果位を得た』と思うなら、それは我相・人相・衆生相・寿者相にとらわれているということです。世尊様!
若阿羅漢作是念:『我得阿羅漢道。』即為著我、人、眾生、壽者。世尊![DS0925]
世尊様は、『私(スブーティ)はすでに競争心のない素晴らしい境地に至り、弟子の中で解空第一の欲望を離れてしまった阿羅漢である』とおっしゃいましたが、
佛說我得無諍三昧人中最為第一,是第一離欲阿羅漢。[DS0926]
私は、『私は欲望を離れてしまった阿羅漢である』とは思いません。世尊様!
我不作是念:『我是離欲阿羅漢。』世尊![DS0927]
もし私が、『私は阿羅漢の果位を得た』と思えば、世尊様は、『スブーティは静寂を好む修行者である』とおっしゃらないのです。
我若作是念:『我得阿羅漢道。』則不說須菩提是樂阿蘭那行者。[DS0928]
私はすでに無為・無所得(得られるものがない)の境地に至ったから、
以須菩提實無所行,[DS0929]
世尊様は、『スブーティィは静寂を好む修行者である』とおっしゃいました。」
而名須菩提是樂阿蘭那行。」[DS0930]
荘厳浄土分第十
お釈迦様:
佛告須菩提:[DS1001]
「スブーティよ、お前はどう思うか?
「於意云何?[DS1002]
かつて私は燃燈仏様(過去の世に出現し、釈迦牟尼に九十一劫⦅きわめて長い時間の単位。一小劫は1679万8千年くらいである⦆後で仏になるという予言を授けた仏)から仏法を得ただろうか?」
如來昔在然燈佛所,於法有所得不?」[DS1003]
スブーティ:
「世尊様! 世尊様は燃燈仏様から何の仏法も得られませんでした(仏法は得られるものではなく、燃燈仏は釈迦牟尼を教化しただけ)。」
「世尊!如來在然燈佛所,於法實無所得。」[DS1004]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS1005]
菩薩は仏土を荘厳にする(七宝等々で厳かに布置する)だろうか?」
菩薩莊嚴佛土不?」[DS1006]
スブーティ:
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS1007]
いわゆる仏土の荘厳は、法性(真如の本性)の荘厳(神聖)であり、外観の荘厳ではないからです。」
莊嚴佛土者,則非莊嚴,是名莊嚴。」[DS1008]
お釈迦様:
「そのとおり! スブーティよ! それゆえ、
「是故須菩提,[DS1009]
菩薩はまさにそのように清浄な心を起こすべきなのだ。
諸菩薩摩訶薩應如是生清淨心,[DS1010]
色に影響されて心を起こすべきではなく、
不應住色生心,[DS1011]
声・香り・味・触覚・法に影響されて心を起こすべきではなく、
不應住聲、香、味、觸、法生心,[DS1012]
まさに何にも影響されずに心を起こすべきなのだ。スブーティよ!
應無所住而生其心。須菩提![DS1013]
例えば、ある人は身体が山の王須弥山のように大きい。
譬如有人,身如須彌山王,[DS1014]
お前はどう思うか? その人の身体は大きいだろうか?」
於意云何?是身為大不?」[DS1015]
スブーティ:
須菩提言:[DS1016]
「世尊様! それはとても大きいです。それでも、
「甚大,世尊!何以故?[DS1017]
世尊様のおっしゃる法身(真如の理体)こそが最も大きい身なのです。」
佛說非身,是名大身。」[DS1018]
無為福勝分第十一
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、恒河沙(ガンジス河のすべての砂のような数量)のガンジス河がある。
「須菩提!如恒河中所有沙數,如是沙等恒河,[DS1101]
お前はどう思うか? それらのガンジス河にある砂の数量(恒河沙✕恒河沙)は多いだろうか?」
於意云何?是諸恒河沙寧為多不?」[DS1102]
スブーティ:
須菩提言:[DS1103]
「それはとても多いです。世尊様!
「甚多,世尊![DS1104]
それらのガンジス河の数量は無数で、ましてやそこにある砂の数量はなおさらです。」
但諸恒河尚多無數,何況其沙。」[DS1105]
お釈迦様:
「スブーティ! 私は今、真実をお前に告げよう。
「須菩提!我今實言告汝。[DS1106]
例えば、ある人が恒河沙の三千大千世界を満たすような数量の七宝を人々に施すとする。
若有善男子、善女人,以七寶滿爾所恒河沙數三千大千世界,以用布施,[DS1107]
その布施から積んだ福徳は多いだろうか?」
得福多不?」[DS1108]
スブーティ:
須菩提言:[DS1109]
「それはとても多いです。世尊様!」
「甚多,世尊!」[DS1110]
お釈迦様:
佛告須菩提:[DS1111]
「もしある善良な男女が、
「若善男子、善女人,[DS1112]
この経典の教義を実行したり、他人に説き聞かせたりするなら、それがたとえ経典中の四行詩だけでも、
於此經中,乃至受持四句偈等,為他人說,[DS1113]
その男女が積んだ福徳は、布施から積んだ福徳より多いのだ!」
而此福德勝前福德。」[DS1114]
尊重正教分第十二
お釈迦様:
「また、スブーティよ!
「復次,須菩提![DS1201]
知りなさい! もしある人がこの経典を他人に説き聞かせるなら、それがたとえ経典中の四行詩だけでも、
隨說是經,乃至四句偈等,[DS1202]
すべての天人・人間・阿修羅はその人を守護し、供養すべきだ。まるで如来がいる寺を敬うかのように。
當知此處,一切世間天、人、阿修羅,皆應供養,如佛塔廟,[DS1203]
言うまでもなく、経典をすべて読み、教義を完全に実行する人はなおさらだ。スブーティよ!
何況有人盡能受持讀誦。須菩提![DS1204]
知りなさい! その人は最高の第一の稀有な仏法を成就したのだ(般若の境地に至った)。
當知是人成就最上第一希有之法,[DS1205]
この経典のある場所は如来・如来の弟子がいることと等しく、皆はその場所を尊ぶべきだ。」
若是經典所在之處,則為有佛,若尊重弟子。」[DS1206]
如法受持分第十三
スブーティ:
爾時,須菩提白佛言:[DS1301]
「世尊様。この経典の名前は何ですか?
「世尊!當何名此經?[DS1302]
私たちはどのようにこの経典の教義に従うべきでしょうか?」
我等云何奉持?」[DS1303]
お釈迦様:
佛告須菩提:[DS1304]
「この経典の名前は『金剛般若波羅蜜』という。
「是經名為『金剛般若波羅蜜』。以是名字,[DS1305]
皆はこの経典の教義に従うべきだ。
汝當奉持。[DS1306]
なぜこの経典に名をつけたと思うか? スブーティよ!
所以者何?須菩提![DS1307]
そもそも般若波羅蜜の指すものは言葉で表すことができず、名前がないが、人々に呼ばれやすいように仮に名をつけたのだ。
佛說般若波羅蜜,則非般若波羅蜜。[DS1308]
スブーティよ! お前はどう思うか?
須菩提!於意云何?[DS1309]
私は般若波羅蜜を説いたことがあるだろうか?」
如來有所說法不?」[DS1310]
スブーティ:
須菩提白佛言:[DS1311]
「世尊様。そんなことはありません!」
「世尊!如來無所說。」[DS1312]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS1313]
三千大千世界を構成するすべての微塵(極微な塵、粒子)の数量は多いだろうか?」
三千大千世界所有微塵是為多不?」[DS1314]
スブーティ:
須菩提言:[DS1315]
「世尊様。それはとても多いです。」
「甚多,世尊!」[DS1316]
お釈迦様:
「よく聞きなさい、
「須菩提![DS1317]
微塵というのは、仮につけた名であり、微塵(心的表象)ではない(人々は存在しない物の名を通じて心に印象を描く。さらにその名の指す物が実際に存在すると思う)。
諸微塵,如來說非微塵,是名微塵。[DS1318]
世界というのは、仮につけた名であり、世界ではない。
如來說世界,非世界,是名世界。[DS1319]
また、スブーティよ!
須菩提!於意云何?[DS1320]
『三十二相(仏が備わっているという三十二のすぐれた外見的な身体の特徴)の姿を見ることによって如来を見る』というのは正しいか?」
可以三十二相見如來不?」[DS1321]
スブーティ:
「それは不正確です。世尊様。なぜかというと、
「不也,世尊!不可以三十二相得見如來。何以故?[DS1322]
如来様の三十二相のお姿は如来様のご応化身(仏が衆生を教化することに応じて現れる身)であり、本当の身(法身)ではないからです。」
如來說三十二相,即是非相,是名三十二相。」[DS1323]
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある善良な男女が自分の恒河沙の身体と命を人々に施し恵み、
「須菩提!若有善男子、善女人,以恒河沙等身命布施;[DS1324]
他方、ある人がこの経典の教義を実行し、他人に説き聞かせたとすると、それがたとえ経典中の四行詩だけでも、
若復有人,於此經中,乃至受持四句偈等,為他人說,[DS1325]
後者が積んだ福徳は、前者が積んだ福徳より多いのだ!」
其福甚多。」[DS1326]
離相寂滅分第十四
スブーティはそのお釈迦様の説法を聞いて、その奥妙な道理を深く理解し、悲痛して涙を流して泣いていました。
爾時,須菩提聞說是經,深解義趣,涕淚悲泣,[DS1401]
スブーティ:
而白佛言:[DS1402]
「これは素晴らしいことです! 世尊様。世尊様はこのように奥深い経典をお説きになりました。
「希有!世尊!佛說如是甚深經典,[DS1403]
私は昔から智慧の目を得ましたが、このような経典を拝聴したことがございません。世尊様。
我從昔來所得慧眼,未曾得聞如是之經。世尊![DS1404]
もし誰かがこの経典を聞いて、それを信じて心が清浄になり、実相が理解できたなら、
若復有人得聞是經,信心清淨,則生實相,[DS1405]
その人は必ず第一の稀有な功徳(功績と徳行)を成就できます。世尊様。
當知是人成就第一希有功德。世尊![DS1406]
実相というのは、相がありません。ゆえに世尊様はそれを実相と呼びます。世尊様。
是實相者,則是非相,是故如來說名實相。世尊![DS1407]
私は今この経典を拝聴し、これを信じて教義を実行するのは難しいことではありません。
我今得聞如是經典,信解受持不足為難,[DS1408]
もしこれから五百年後、ある衆生がこの経典を聞いて、それを信じて教義を実行したなら、
若當來世,後五百歲,其有眾生,得聞是經,信解受持,[DS1409]
その人は第一の稀有な人です。なぜなら、
是人則為第一希有。何以故?[DS1410]
その人はすでに我相・人相・衆生相・寿者相を断ち切ってしまっているからです。
此人無我相、人相、眾生相、壽者相。[DS1411]
しかも、我相が非相(相ではない)であり、人相も衆生相も寿者相も非相であることがその人は分かるからです。
所以者何?我相即是非相,人相、眾生相、壽者相即是非相。[DS1412]
ともかく、心がすべての相を離れてしまった人々は諸仏と呼ばれます。」
何以故?離一切諸相,則名諸佛。」[DS1413]
お釈迦様:
佛告須菩提:[DS1414]
「そのとおりだ。そのとおりだ。
「如是,如是![DS1415]
もし誰かがこの経典を聞いて、驚かず、恐れず、しりごみしないなら、その人はとても稀有な人だ。スブーティよ!
若復有人得聞是經,不驚、不怖、不畏,當知是人甚為希有。何以故?須菩提![DS1416]
そもそも私が言う第一波羅蜜(般若波羅蜜)というのは、さまざまな経典がこの第一波羅蜜から派生するという意味であり、第一波羅蜜というものはなく、人々に呼ばれやすいように仮につけた名である。スブーティよ!
如來說第一波羅蜜,非第一波羅蜜,是名第一波羅蜜。須菩提![DS1417]
また、忍辱(侮辱や迫害に耐え忍ぶこと)波羅蜜というのは、忍辱波羅蜜ではないのだ(心は空になって、侮辱や迫害に影響されない。ゆえに忍辱の必要がない)。なぜかというと、
忍辱波羅蜜,如來說非忍辱波羅蜜。何以故?須菩提![DS1418]
過去のある世、歌利王(一国の王)は剣で私の手足を切り落としたが、
如我昔為歌利王割截身體,[DS1419]
その時の私は、心に我相・人相・衆生相・寿者相を起こさなかったからだ。その原因は何だろうか?
我於爾時,無我相、無人相、無眾生相、無壽者相。何以故?[DS1420]
もし私が心に我相・人相・衆生相・寿者相を起こしていたら、きっと歌利王に恨みを抱いただろう。スブーティよ!
我於往昔節節支解時,若有我相、人相、眾生相、壽者相,應生瞋恨。須菩提![DS1421]
私は過去の五百世で仙人としてずっと忍辱波羅蜜を修めていて、
又念過去於五百世作忍辱仙人,[DS1422]
私は歌利王に会った世では心がすでに我相・人相・衆生相・寿者相を離れていた。スブーティよ!
於爾所世,無我相、無人相、無眾生相、無壽者相。是故須菩提![DS1423]
菩薩は心が一切の相から離れ、菩提心を発すべきだ。
菩薩應離一切相,發阿耨多羅三藐三菩提心,[DS1424]
色に影響されて心を起こすべきではなく、
不應住色生心,[DS1425]
声・香り・味・触覚・法に影響されて心を起こすべきではなく、
不應住聲、香、味、觸、法生心,[DS1426]
まさに何にも影響されずに心を起こすべきなのだ。
應生無所住心。[DS1427]
もし心が何かに影響されるなら、それは菩提心ではない。
若心有住,則為非住。[DS1428]
ゆえに如来は、『菩薩は色にとらわれて布施を行うべきではない』と言うのだ。スブーティよ!
是故佛說:『菩薩心不應住色布施。』須菩提![DS1429]
菩薩はすべての衆生を助けるためにこのように布施を行うべきだ。
菩薩為利益一切眾生,應如是布施。[DS1430]
世間のすべての相は、その本質が空であり、ゆえにその相が非相(相ではない)である。
如來說:『一切諸相,即是非相。』[DS1431]
また、すべての衆生は、もともと仏であり、ゆえに衆生ではないのだ(一時的に迷っている)。スブーティよ!
又說:『一切眾生,則非眾生。』須菩提![DS1432]
私が言う般若波羅蜜は真実であり、
如來是真語者、實語者、[DS1433]
合理的であり、嘘ではなく、別の解釈がない。
如語者、不誑語者、不異語者。須菩提![DS1434]
また、この私が獲得した般若波羅蜜は実在的ではなく、空虚的でもない。スブーティよ!
如來所得法,此法無實無虛。須菩提![DS1435]
もし菩薩が法にとらわれて布施を行えば、まるで暗室に入ったように何も見えない。
若菩薩心住於法而行布施,如人入闇,則無所見;[DS1436]
もし菩薩が法にとらわれないで布施を行えば、目がある人は明るい太陽光の下でさまざまなものが見えるようだ。スブーティよ!
若菩薩心不住法而行布施,如人有目,日光明照,見種種色。須菩提![DS1437]
もし将来の世代において、ある善良な男女が経典を読んだり、教義を実行したりするなら、
當來之世,若有善男子、善女人,能於此經受持讀誦,[DS1438]
私が如来の智慧によってそれを知って見ることができ、
則為如來以佛智慧,悉知是人,悉見是人,[DS1439]
それらの男女は必ず無数・限りのない功徳が成就するだろう。」
皆得成就無量無邊功德。」[DS1440]
持経功徳分第十五
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある善良な男女が午前中に自分の恒河沙の身体と命を人々に施し恵み、
「須菩提!若有善男子、善女人,初日分以恒河沙等身布施,[DS1501]
正午から夕方までにまた恒河沙の身体と命を人々に施し恵み、
中日分復以恒河沙等身布施,[DS1502]
夜もまた恒河沙の身体と命を人々に施し恵み、
後日分亦以恒河沙等身布施,[DS1503]
このように無量の百千万億の劫の時間が経ち、
如是無量百千萬億劫以身布施;[DS1504]
一方で、ある人がこの経典を聞いて経典を確信したとすると、
若復有人聞此經典,信心不逆,[DS1505]
後者が積んだ福徳が、前者の布施から積んだ福徳より多いのだ!
其福勝彼,[DS1506]
ましてや、経典を書き写したり、読んだり、他人に解説したり、教義を実行したりして積んだ福徳はなおさら多いのだ。スブーティよ!
何況書寫、受持、讀誦、為人解說。須菩提![DS1507]
とにかく、この経典は限りなく、不思議な功徳を持っていて、その功徳を計ることはできない。
以要言之,是經有不可思議、不可稱量、無邊功德。[DS1508]
私は大乗(自分だけの解脱を目的とせず、すべての衆生が解脱の境地に至るのを望むこと)の人のためにこの経典を説き、また最も上乗の人のためにこの経典を説く。
如來為發大乘者說,為發最上乘者說。[DS1509]
もしある人がこの経典を読んだり、他人に説き聞かせたり、教義を実行したりするなら、
若有人能受持讀誦,廣為人說,[DS1510]
私はそれを知って見ることができ、その人は必ず限りなく、不思議な功徳を成就し、その功徳を計ることはできない。
如來悉知是人,悉見是人,皆得成就不可量、不可稱、無有邊、不可思議功德,[DS1511]
そのような人は如来の無上正等覚の教えを担うことができる。その理由は何だろうか?スブーティよ!
如是人等,則為荷擔如來阿耨多羅三藐三菩提。何以故?須菩提![DS1512]
小乗(自分の解脱を目的とすること)の教えを好む人は我相・人相・衆生相・寿者相にとらわれて、
若樂小法者,著我見、人見、眾生見、壽者見,[DS1513]
この経典を聞いたり、読んだり、他人に説き聞かせたり、教義を実行したりするなどをしないのだ。スブーティよ!
則於此經,不能聽受讀誦、為人解說。須菩提![DS1514]
どこでもこの経典があれば、すべての天人・人間・阿修羅はこの経典を供養すべきだ。
在在處處,若有此經,一切世間天、人、阿修羅,所應供養;[DS1515]
知りなさい!その場所は仏塔であり、皆はそれを敬い、礼をして囲み、さまざまな花と香料を散らして供養すべきだ。」
當知此處則為是塔,皆應恭敬,作禮圍繞,以諸華香而散其處。」[DS1516]
能浄業障分第十六
お釈迦様:
「また、スブーティよ! ある善良な男女がこの経典を読んだり、教義を実行したりし、
「復次,須菩提!善男子、善女人,受持讀誦此經,[DS1601]
その後、もしその男女が人々に軽蔑されるなら、
若為人輕賤,[DS1602]
もともとその男女は前世の罪で将来必ず悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)に落ちるが、
是人先世罪業,應墮惡道,[DS1603]
今、人々に軽蔑されることを通じて前世の罪を償ってしまった。
以今世人輕賤故,先世罪業則為消滅,[DS1604]
将来には必ず無上正等覚に至ることができる。スブーティよ!
當得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提![DS1605]
私は燃燈仏様に会う前の無量の阿僧祇劫(数えられないほど長い時間)の間、
我念過去無量阿僧祇劫,於然燈佛前,[DS1606]
八百四千萬億の那由他(きわめて大きな数量)の諸仏様を供養していて、時間を無駄に過ごしたことはなかった。
得值八百四千萬億那由他諸佛,悉皆供養承事,無空過者;[DS1607]
もし将来の世代にこの経典を読んだり、教義を実行したりする人がいれば、
若復有人,於後末世,能受持讀誦此經,[DS1608]
私の供養から積んだ功徳が、その人が積んだ功徳の百分の一にも、千万億分の一にも及ばず、
所得功德,於我所供養諸佛功德,百分不及一,千萬億分、[DS1609]
どのように計算しても、たとえても、その人が積んだ功徳と比べることはできない。スブーティよ!
乃至算數譬喻所不能及。須菩提![DS1610]
将来の世代にある善良な男女がこの経典を読んだり、教義を実行したりし、
若善男子、善女人,於後末世,有受持讀誦此經,[DS1611]
もし私がそれらのことから積んだ功徳を詳しく説けば、人々は心が狂い乱れ、それを疑って信じないかもしれない。スブーティよ!
所得功德,我若具說者,或有人聞,心則狂亂,狐疑不信。須菩提![DS1612]
知りなさい! この経典の教義は不思議であり、教義を実行する利益もまた不思議である。」
當知是經義不可思議,果報亦不可思議。」[DS1613]
【金剛経】
一相無相分第九
お釈迦様:
「スブーティよ! お前はどう思うか?
「須菩提!於意云何?[DS0901]
須陀洹という果位(位階)の聖者(須陀洹果。声聞乗の四果中の初果。須陀洹はすでに三界の見惑⦅誤った見解⦆を断ち切ってしまっているが、まだ思惑⦅欲望⦆がある。天界と人間界とを七度往復して生まれ変わった後、必ず阿羅漢の果位に至る)は、『私は須陀洹の果位を得た』と思うか?」
須陀洹能作是念:『我得須陀洹果。』不?」[DS0902]
スブーティ:
須菩提言:[DS0903]
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS0904]
須陀洹は入流(聖道の流れに入ること)と称されますが、心がどこにも入らず、
須陀洹名為入流,而無所入,[DS0905]
色・声・香り・味・触覚・法にとらわれないからです。
不入色、聲、香、味、觸、法,[DS0906]
これが須陀洹と称される聖者です。」
是名須陀洹。」[DS0907]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS0908]
斯陀含という果位の聖者(斯陀含果。声聞乗の四果中の二果。斯陀含は欲界の思惑が少しある。天界に転生した後、もう一度人間界に生まれ変わり、必ず解脱の境地に至る)は、『私は斯陀含の果位を得た』と思うか?」
斯陀含能作是念:『我得斯陀含果。』不?」[DS0909]
スブーティ:
須菩提言:[DS0910]
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS0911]
斯陀含は一来(もう一度人間界に生まれ変わること)と称されますが、実は心は往来(生滅)を離れているからです。
斯陀含名一往來,而實無往來,[DS0912]
これが斯陀含と称される聖者です。」
是名斯陀含。」[DS0913]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS0914]
阿那含という果位の聖者(阿那含果。声聞乗の四果中の三果。阿那含はすべての欲界の思惑を断ち切ってしまっており、欲界に生まれ変わらない。死んだ後五浄居天に転生し、そこで解脱の境地に至る)は、『私は阿那含の果位を得た』と思うか?」
阿那含能作是念:『我得阿那含果。』不?」[DS0915]
スブーティ:
須菩提言:[DS0916]
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS0917]
阿那含は不還(欲界に生まれ変わらないこと)と称されますが、実はすでに空の境地に至り、往来の観念を断ち切ってしまっているからです。
阿那含名為不來,而實無來,[DS0918]
ゆえに阿那含と称されるのです。」
是故名阿那含。」[DS0919]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS0920]
阿羅漢という果位の聖者(阿羅漢果。声聞乗の四果中の四果。阿羅漢は三界を超越した聖者であり、すでに三界の思惑を断ち切ってしまっている)は、『私は阿羅漢の果位を得た』と思うか?」
阿羅漢能作是念:『我得阿羅漢道。』不?」[DS0921]
スブーティ:
須菩提言:[DS0922]
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS0923]
阿羅漢は心が相を離れていて、実は阿羅漢というものがないからです。世尊様!
實無有法名阿羅漢。世尊![DS0924]
もし阿羅漢が、『私は阿羅漢の果位を得た』と思うなら、それは我相・人相・衆生相・寿者相にとらわれているということです。世尊様!
若阿羅漢作是念:『我得阿羅漢道。』即為著我、人、眾生、壽者。世尊![DS0925]
世尊様は、『私(スブーティ)はすでに競争心のない素晴らしい境地に至り、弟子の中で解空第一の欲望を離れてしまった阿羅漢である』とおっしゃいましたが、
佛說我得無諍三昧人中最為第一,是第一離欲阿羅漢。[DS0926]
私は、『私は欲望を離れてしまった阿羅漢である』とは思いません。世尊様!
我不作是念:『我是離欲阿羅漢。』世尊![DS0927]
もし私が、『私は阿羅漢の果位を得た』と思えば、世尊様は、『スブーティは静寂を好む修行者である』とおっしゃらないのです。
我若作是念:『我得阿羅漢道。』則不說須菩提是樂阿蘭那行者。[DS0928]
私はすでに無為・無所得(得られるものがない)の境地に至ったから、
以須菩提實無所行,[DS0929]
世尊様は、『スブーティィは静寂を好む修行者である』とおっしゃいました。」
而名須菩提是樂阿蘭那行。」[DS0930]
荘厳浄土分第十
お釈迦様:
佛告須菩提:[DS1001]
「スブーティよ、お前はどう思うか?
「於意云何?[DS1002]
かつて私は燃燈仏様(過去の世に出現し、釈迦牟尼に九十一劫⦅きわめて長い時間の単位。一小劫は1679万8千年くらいである⦆後で仏になるという予言を授けた仏)から仏法を得ただろうか?」
如來昔在然燈佛所,於法有所得不?」[DS1003]
スブーティ:
「世尊様! 世尊様は燃燈仏様から何の仏法も得られませんでした(仏法は得られるものではなく、燃燈仏は釈迦牟尼を教化しただけ)。」
「世尊!如來在然燈佛所,於法實無所得。」[DS1004]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS1005]
菩薩は仏土を荘厳にする(七宝等々で厳かに布置する)だろうか?」
菩薩莊嚴佛土不?」[DS1006]
スブーティ:
「世尊様。そんなことはありません! なぜなら、
「不也,世尊!何以故?[DS1007]
いわゆる仏土の荘厳は、法性(真如の本性)の荘厳(神聖)であり、外観の荘厳ではないからです。」
莊嚴佛土者,則非莊嚴,是名莊嚴。」[DS1008]
お釈迦様:
「そのとおり! スブーティよ! それゆえ、
「是故須菩提,[DS1009]
菩薩はまさにそのように清浄な心を起こすべきなのだ。
諸菩薩摩訶薩應如是生清淨心,[DS1010]
色に影響されて心を起こすべきではなく、
不應住色生心,[DS1011]
声・香り・味・触覚・法に影響されて心を起こすべきではなく、
不應住聲、香、味、觸、法生心,[DS1012]
まさに何にも影響されずに心を起こすべきなのだ。スブーティよ!
應無所住而生其心。須菩提![DS1013]
例えば、ある人は身体が山の王須弥山のように大きい。
譬如有人,身如須彌山王,[DS1014]
お前はどう思うか? その人の身体は大きいだろうか?」
於意云何?是身為大不?」[DS1015]
スブーティ:
須菩提言:[DS1016]
「世尊様! それはとても大きいです。それでも、
「甚大,世尊!何以故?[DS1017]
世尊様のおっしゃる法身(真如の理体)こそが最も大きい身なのです。」
佛說非身,是名大身。」[DS1018]
無為福勝分第十一
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、恒河沙(ガンジス河のすべての砂のような数量)のガンジス河がある。
「須菩提!如恒河中所有沙數,如是沙等恒河,[DS1101]
お前はどう思うか? それらのガンジス河にある砂の数量(恒河沙✕恒河沙)は多いだろうか?」
於意云何?是諸恒河沙寧為多不?」[DS1102]
スブーティ:
須菩提言:[DS1103]
「それはとても多いです。世尊様!
「甚多,世尊![DS1104]
それらのガンジス河の数量は無数で、ましてやそこにある砂の数量はなおさらです。」
但諸恒河尚多無數,何況其沙。」[DS1105]
お釈迦様:
「スブーティ! 私は今、真実をお前に告げよう。
「須菩提!我今實言告汝。[DS1106]
例えば、ある人が恒河沙の三千大千世界を満たすような数量の七宝を人々に施すとする。
若有善男子、善女人,以七寶滿爾所恒河沙數三千大千世界,以用布施,[DS1107]
その布施から積んだ福徳は多いだろうか?」
得福多不?」[DS1108]
スブーティ:
須菩提言:[DS1109]
「それはとても多いです。世尊様!」
「甚多,世尊!」[DS1110]
お釈迦様:
佛告須菩提:[DS1111]
「もしある善良な男女が、
「若善男子、善女人,[DS1112]
この経典の教義を実行したり、他人に説き聞かせたりするなら、それがたとえ経典中の四行詩だけでも、
於此經中,乃至受持四句偈等,為他人說,[DS1113]
その男女が積んだ福徳は、布施から積んだ福徳より多いのだ!」
而此福德勝前福德。」[DS1114]
尊重正教分第十二
お釈迦様:
「また、スブーティよ!
「復次,須菩提![DS1201]
知りなさい! もしある人がこの経典を他人に説き聞かせるなら、それがたとえ経典中の四行詩だけでも、
隨說是經,乃至四句偈等,[DS1202]
すべての天人・人間・阿修羅はその人を守護し、供養すべきだ。まるで如来がいる寺を敬うかのように。
當知此處,一切世間天、人、阿修羅,皆應供養,如佛塔廟,[DS1203]
言うまでもなく、経典をすべて読み、教義を完全に実行する人はなおさらだ。スブーティよ!
何況有人盡能受持讀誦。須菩提![DS1204]
知りなさい! その人は最高の第一の稀有な仏法を成就したのだ(般若の境地に至った)。
當知是人成就最上第一希有之法,[DS1205]
この経典のある場所は如来・如来の弟子がいることと等しく、皆はその場所を尊ぶべきだ。」
若是經典所在之處,則為有佛,若尊重弟子。」[DS1206]
如法受持分第十三
スブーティ:
爾時,須菩提白佛言:[DS1301]
「世尊様。この経典の名前は何ですか?
「世尊!當何名此經?[DS1302]
私たちはどのようにこの経典の教義に従うべきでしょうか?」
我等云何奉持?」[DS1303]
お釈迦様:
佛告須菩提:[DS1304]
「この経典の名前は『金剛般若波羅蜜』という。
「是經名為『金剛般若波羅蜜』。以是名字,[DS1305]
皆はこの経典の教義に従うべきだ。
汝當奉持。[DS1306]
なぜこの経典に名をつけたと思うか? スブーティよ!
所以者何?須菩提![DS1307]
そもそも般若波羅蜜の指すものは言葉で表すことができず、名前がないが、人々に呼ばれやすいように仮に名をつけたのだ。
佛說般若波羅蜜,則非般若波羅蜜。[DS1308]
スブーティよ! お前はどう思うか?
須菩提!於意云何?[DS1309]
私は般若波羅蜜を説いたことがあるだろうか?」
如來有所說法不?」[DS1310]
スブーティ:
須菩提白佛言:[DS1311]
「世尊様。そんなことはありません!」
「世尊!如來無所說。」[DS1312]
お釈迦様:
「では、スブーティよ!
「須菩提!於意云何?[DS1313]
三千大千世界を構成するすべての微塵(極微な塵、粒子)の数量は多いだろうか?」
三千大千世界所有微塵是為多不?」[DS1314]
スブーティ:
須菩提言:[DS1315]
「世尊様。それはとても多いです。」
「甚多,世尊!」[DS1316]
お釈迦様:
「よく聞きなさい、
「須菩提![DS1317]
微塵というのは、仮につけた名であり、微塵(心的表象)ではない(人々は存在しない物の名を通じて心に印象を描く。さらにその名の指す物が実際に存在すると思う)。
諸微塵,如來說非微塵,是名微塵。[DS1318]
世界というのは、仮につけた名であり、世界ではない。
如來說世界,非世界,是名世界。[DS1319]
また、スブーティよ!
須菩提!於意云何?[DS1320]
『三十二相(仏が備わっているという三十二のすぐれた外見的な身体の特徴)の姿を見ることによって如来を見る』というのは正しいか?」
可以三十二相見如來不?」[DS1321]
スブーティ:
「それは不正確です。世尊様。なぜかというと、
「不也,世尊!不可以三十二相得見如來。何以故?[DS1322]
如来様の三十二相のお姿は如来様のご応化身(仏が衆生を教化することに応じて現れる身)であり、本当の身(法身)ではないからです。」
如來說三十二相,即是非相,是名三十二相。」[DS1323]
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある善良な男女が自分の恒河沙の身体と命を人々に施し恵み、
「須菩提!若有善男子、善女人,以恒河沙等身命布施;[DS1324]
他方、ある人がこの経典の教義を実行し、他人に説き聞かせたとすると、それがたとえ経典中の四行詩だけでも、
若復有人,於此經中,乃至受持四句偈等,為他人說,[DS1325]
後者が積んだ福徳は、前者が積んだ福徳より多いのだ!」
其福甚多。」[DS1326]
離相寂滅分第十四
スブーティはそのお釈迦様の説法を聞いて、その奥妙な道理を深く理解し、悲痛して涙を流して泣いていました。
爾時,須菩提聞說是經,深解義趣,涕淚悲泣,[DS1401]
スブーティ:
而白佛言:[DS1402]
「これは素晴らしいことです! 世尊様。世尊様はこのように奥深い経典をお説きになりました。
「希有!世尊!佛說如是甚深經典,[DS1403]
私は昔から智慧の目を得ましたが、このような経典を拝聴したことがございません。世尊様。
我從昔來所得慧眼,未曾得聞如是之經。世尊![DS1404]
もし誰かがこの経典を聞いて、それを信じて心が清浄になり、実相が理解できたなら、
若復有人得聞是經,信心清淨,則生實相,[DS1405]
その人は必ず第一の稀有な功徳(功績と徳行)を成就できます。世尊様。
當知是人成就第一希有功德。世尊![DS1406]
実相というのは、相がありません。ゆえに世尊様はそれを実相と呼びます。世尊様。
是實相者,則是非相,是故如來說名實相。世尊![DS1407]
私は今この経典を拝聴し、これを信じて教義を実行するのは難しいことではありません。
我今得聞如是經典,信解受持不足為難,[DS1408]
もしこれから五百年後、ある衆生がこの経典を聞いて、それを信じて教義を実行したなら、
若當來世,後五百歲,其有眾生,得聞是經,信解受持,[DS1409]
その人は第一の稀有な人です。なぜなら、
是人則為第一希有。何以故?[DS1410]
その人はすでに我相・人相・衆生相・寿者相を断ち切ってしまっているからです。
此人無我相、人相、眾生相、壽者相。[DS1411]
しかも、我相が非相(相ではない)であり、人相も衆生相も寿者相も非相であることがその人は分かるからです。
所以者何?我相即是非相,人相、眾生相、壽者相即是非相。[DS1412]
ともかく、心がすべての相を離れてしまった人々は諸仏と呼ばれます。」
何以故?離一切諸相,則名諸佛。」[DS1413]
お釈迦様:
佛告須菩提:[DS1414]
「そのとおりだ。そのとおりだ。
「如是,如是![DS1415]
もし誰かがこの経典を聞いて、驚かず、恐れず、しりごみしないなら、その人はとても稀有な人だ。スブーティよ!
若復有人得聞是經,不驚、不怖、不畏,當知是人甚為希有。何以故?須菩提![DS1416]
そもそも私が言う第一波羅蜜(般若波羅蜜)というのは、さまざまな経典がこの第一波羅蜜から派生するという意味であり、第一波羅蜜というものはなく、人々に呼ばれやすいように仮につけた名である。スブーティよ!
如來說第一波羅蜜,非第一波羅蜜,是名第一波羅蜜。須菩提![DS1417]
また、忍辱(侮辱や迫害に耐え忍ぶこと)波羅蜜というのは、忍辱波羅蜜ではないのだ(心は空になって、侮辱や迫害に影響されない。ゆえに忍辱の必要がない)。なぜかというと、
忍辱波羅蜜,如來說非忍辱波羅蜜。何以故?須菩提![DS1418]
過去のある世、歌利王(一国の王)は剣で私の手足を切り落としたが、
如我昔為歌利王割截身體,[DS1419]
その時の私は、心に我相・人相・衆生相・寿者相を起こさなかったからだ。その原因は何だろうか?
我於爾時,無我相、無人相、無眾生相、無壽者相。何以故?[DS1420]
もし私が心に我相・人相・衆生相・寿者相を起こしていたら、きっと歌利王に恨みを抱いただろう。スブーティよ!
我於往昔節節支解時,若有我相、人相、眾生相、壽者相,應生瞋恨。須菩提![DS1421]
私は過去の五百世で仙人としてずっと忍辱波羅蜜を修めていて、
又念過去於五百世作忍辱仙人,[DS1422]
私は歌利王に会った世では心がすでに我相・人相・衆生相・寿者相を離れていた。スブーティよ!
於爾所世,無我相、無人相、無眾生相、無壽者相。是故須菩提![DS1423]
菩薩は心が一切の相から離れ、菩提心を発すべきだ。
菩薩應離一切相,發阿耨多羅三藐三菩提心,[DS1424]
色に影響されて心を起こすべきではなく、
不應住色生心,[DS1425]
声・香り・味・触覚・法に影響されて心を起こすべきではなく、
不應住聲、香、味、觸、法生心,[DS1426]
まさに何にも影響されずに心を起こすべきなのだ。
應生無所住心。[DS1427]
もし心が何かに影響されるなら、それは菩提心ではない。
若心有住,則為非住。[DS1428]
ゆえに如来は、『菩薩は色にとらわれて布施を行うべきではない』と言うのだ。スブーティよ!
是故佛說:『菩薩心不應住色布施。』須菩提![DS1429]
菩薩はすべての衆生を助けるためにこのように布施を行うべきだ。
菩薩為利益一切眾生,應如是布施。[DS1430]
世間のすべての相は、その本質が空であり、ゆえにその相が非相(相ではない)である。
如來說:『一切諸相,即是非相。』[DS1431]
また、すべての衆生は、もともと仏であり、ゆえに衆生ではないのだ(一時的に迷っている)。スブーティよ!
又說:『一切眾生,則非眾生。』須菩提![DS1432]
私が言う般若波羅蜜は真実であり、
如來是真語者、實語者、[DS1433]
合理的であり、嘘ではなく、別の解釈がない。
如語者、不誑語者、不異語者。須菩提![DS1434]
また、この私が獲得した般若波羅蜜は実在的ではなく、空虚的でもない。スブーティよ!
如來所得法,此法無實無虛。須菩提![DS1435]
もし菩薩が法にとらわれて布施を行えば、まるで暗室に入ったように何も見えない。
若菩薩心住於法而行布施,如人入闇,則無所見;[DS1436]
もし菩薩が法にとらわれないで布施を行えば、目がある人は明るい太陽光の下でさまざまなものが見えるようだ。スブーティよ!
若菩薩心不住法而行布施,如人有目,日光明照,見種種色。須菩提![DS1437]
もし将来の世代において、ある善良な男女が経典を読んだり、教義を実行したりするなら、
當來之世,若有善男子、善女人,能於此經受持讀誦,[DS1438]
私が如来の智慧によってそれを知って見ることができ、
則為如來以佛智慧,悉知是人,悉見是人,[DS1439]
それらの男女は必ず無数・限りのない功徳が成就するだろう。」
皆得成就無量無邊功德。」[DS1440]
持経功徳分第十五
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある善良な男女が午前中に自分の恒河沙の身体と命を人々に施し恵み、
「須菩提!若有善男子、善女人,初日分以恒河沙等身布施,[DS1501]
正午から夕方までにまた恒河沙の身体と命を人々に施し恵み、
中日分復以恒河沙等身布施,[DS1502]
夜もまた恒河沙の身体と命を人々に施し恵み、
後日分亦以恒河沙等身布施,[DS1503]
このように無量の百千万億の劫の時間が経ち、
如是無量百千萬億劫以身布施;[DS1504]
一方で、ある人がこの経典を聞いて経典を確信したとすると、
若復有人聞此經典,信心不逆,[DS1505]
後者が積んだ福徳が、前者の布施から積んだ福徳より多いのだ!
其福勝彼,[DS1506]
ましてや、経典を書き写したり、読んだり、他人に解説したり、教義を実行したりして積んだ福徳はなおさら多いのだ。スブーティよ!
何況書寫、受持、讀誦、為人解說。須菩提![DS1507]
とにかく、この経典は限りなく、不思議な功徳を持っていて、その功徳を計ることはできない。
以要言之,是經有不可思議、不可稱量、無邊功德。[DS1508]
私は大乗(自分だけの解脱を目的とせず、すべての衆生が解脱の境地に至るのを望むこと)の人のためにこの経典を説き、また最も上乗の人のためにこの経典を説く。
如來為發大乘者說,為發最上乘者說。[DS1509]
もしある人がこの経典を読んだり、他人に説き聞かせたり、教義を実行したりするなら、
若有人能受持讀誦,廣為人說,[DS1510]
私はそれを知って見ることができ、その人は必ず限りなく、不思議な功徳を成就し、その功徳を計ることはできない。
如來悉知是人,悉見是人,皆得成就不可量、不可稱、無有邊、不可思議功德,[DS1511]
そのような人は如来の無上正等覚の教えを担うことができる。その理由は何だろうか?スブーティよ!
如是人等,則為荷擔如來阿耨多羅三藐三菩提。何以故?須菩提![DS1512]
小乗(自分の解脱を目的とすること)の教えを好む人は我相・人相・衆生相・寿者相にとらわれて、
若樂小法者,著我見、人見、眾生見、壽者見,[DS1513]
この経典を聞いたり、読んだり、他人に説き聞かせたり、教義を実行したりするなどをしないのだ。スブーティよ!
則於此經,不能聽受讀誦、為人解說。須菩提![DS1514]
どこでもこの経典があれば、すべての天人・人間・阿修羅はこの経典を供養すべきだ。
在在處處,若有此經,一切世間天、人、阿修羅,所應供養;[DS1515]
知りなさい!その場所は仏塔であり、皆はそれを敬い、礼をして囲み、さまざまな花と香料を散らして供養すべきだ。」
當知此處則為是塔,皆應恭敬,作禮圍繞,以諸華香而散其處。」[DS1516]
能浄業障分第十六
お釈迦様:
「また、スブーティよ! ある善良な男女がこの経典を読んだり、教義を実行したりし、
「復次,須菩提!善男子、善女人,受持讀誦此經,[DS1601]
その後、もしその男女が人々に軽蔑されるなら、
若為人輕賤,[DS1602]
もともとその男女は前世の罪で将来必ず悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)に落ちるが、
是人先世罪業,應墮惡道,[DS1603]
今、人々に軽蔑されることを通じて前世の罪を償ってしまった。
以今世人輕賤故,先世罪業則為消滅,[DS1604]
将来には必ず無上正等覚に至ることができる。スブーティよ!
當得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提![DS1605]
私は燃燈仏様に会う前の無量の阿僧祇劫(数えられないほど長い時間)の間、
我念過去無量阿僧祇劫,於然燈佛前,[DS1606]
八百四千萬億の那由他(きわめて大きな数量)の諸仏様を供養していて、時間を無駄に過ごしたことはなかった。
得值八百四千萬億那由他諸佛,悉皆供養承事,無空過者;[DS1607]
もし将来の世代にこの経典を読んだり、教義を実行したりする人がいれば、
若復有人,於後末世,能受持讀誦此經,[DS1608]
私の供養から積んだ功徳が、その人が積んだ功徳の百分の一にも、千万億分の一にも及ばず、
所得功德,於我所供養諸佛功德,百分不及一,千萬億分、[DS1609]
どのように計算しても、たとえても、その人が積んだ功徳と比べることはできない。スブーティよ!
乃至算數譬喻所不能及。須菩提![DS1610]
将来の世代にある善良な男女がこの経典を読んだり、教義を実行したりし、
若善男子、善女人,於後末世,有受持讀誦此經,[DS1611]
もし私がそれらのことから積んだ功徳を詳しく説けば、人々は心が狂い乱れ、それを疑って信じないかもしれない。スブーティよ!
所得功德,我若具說者,或有人聞,心則狂亂,狐疑不信。須菩提![DS1612]
知りなさい! この経典の教義は不思議であり、教義を実行する利益もまた不思議である。」
當知是經義不可思議,果報亦不可思議。」[DS1613]