夢幻泡影
【金剛経】
化無所化分第二十五
お釈迦様:
「スブーティよ! お前は、『世尊は衆生を導くという思いがある』と考えてはならない。なぜかというと、
「須菩提!於意云何?汝等勿謂如來作是念:『我當度眾生。』須菩提!莫作是念。何以故?[DS2501]
実は如来は衆生を導いたことはなく、
實無有眾生如來度者,[DS2502]
もし如来が衆生を導こうと思うなら、如来は我相・人相・衆生相・寿者相にとらわれるからだ。スブーティよ!
若有眾生如來度者,如來則有我、人、眾生、壽者。須菩提![DS2503]
如来は『私』と言うが、実はすでに我相を断ち切っている。
如來說:『有我者,則非有我,[DS2504]
しかし、凡人は我相にとらわれている。
而凡夫之人以為有我。』[DS2505]
聞きなさい。もともと凡人は仏の本性が備わっていて、もし悟りを開いたら、もう凡人ではない。」
須菩提!凡夫者,如來說則非凡夫。」[DS2506]
法身非相分第二十六
お釈迦様:
「スブーティよ! お前はどう思うか?
「須菩提!於意云何?[DS2601]
『三十二相の姿を見ることによって如来を見る』というのは正しいか?」
可以三十二相觀如來不?」[DS2602]
スブーティ(意味を誤ってとらえた):
須菩提言:[DS2603]
「正しいです。世尊様。」
「如是,如是!以三十二相觀如來。」[DS2604]
お釈迦様:
「スブーティよ! 三十二相の姿を見ることによって如来を見る、もしそれが正しいなら、
佛言:「須菩提!若以三十二相觀如來者,[DS2605]
転輪聖王も同様に如来である。」
轉輪聖王則是如來。」[DS2606]
スブーティ:
須菩提白佛言:[DS2607]
「申し訳ございません。世尊様。私が世尊様のお教えを理解したところによると、三十二相の姿を見ることによって如来を見るべきではないのです。」
「世尊!如我解佛所說義,不應以三十二相觀如來。」[DS2608]
その時、お釈迦様は次の詩(四行詩の一)を読みました。
爾時,世尊而說偈言:[DS2609]
「もし色や形を見ることによって如来を見たり、
「若以色見我,[DS2610]
声を聞くことによって如来の教えを求めたりするなら、
以音聲求我,[DS2611]
その人は邪道に入り、
是人行邪道,[DS2612]
如来の真実の姿が見られない。」
不能見如來。」[DS2613]
無断無滅分第二十七
お釈迦様:
「スブーティよ! もしお前が、『世尊は無上正等覚の境地に至った。しかし、それは三十二種類の浄行(清浄な行い)の修行のおかげではない』と思うなら、それは間違いだ。
「須菩提!汝若作是念:『如來不以具足相故,得阿耨多羅三藐三菩提。』[DS2701]
『世尊は無上正等覚の境地に至った。しかし、それは三十二種類の浄行の修行のおかげではない』と思ってはいけない。
須菩提!莫作是念。如來不以具足相故,得阿耨多羅三藐三菩提。[DS2702]
スブーティよ!よく聞きなさい!
須菩提![DS2703]
『すべては空であり、断滅(すべてはただ一生があり、最後に絶えてなくなる。ゆえに前後の因果はないこと)であり、ゆえに修行の必要がない。無上正等覚の境地に至った如来はこのように理解している』と思ってはいけない。なぜかというと、
汝若作是念:『發阿耨多羅三藐三菩提者,說諸法斷滅相。』莫作是念。何以故?[DS2704]
無上正等覚の境地に至った如来は、『すべては不生不滅であり、常(永久不変の存在があること)でもなく、断滅でもない』と説いているからだ。」
發阿耨多羅三藐三菩提心者,於法不說斷滅相。」[DS2705]
不受不貪分第二十八
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある菩薩は恒河沙の世界を満たすような数量の七宝を人々に施し、
「須菩提!若菩薩以滿恒河沙等世界七寶布施;[DS2801]
一方、別の菩薩はすべてが無我であると知り、忍辱波羅蜜の修行を達成したとすると、
若復有人知一切法無我,得成於忍,[DS2802]
後者の菩薩が積んだ功徳は、前者の菩薩が積んだ功徳に勝つのだ。なぜかというと、
此菩薩勝前菩薩所得功德。須菩提![DS2803]
後者の菩薩は福徳にとらわれないからだ。」
以諸菩薩不受福德故。」[DS2804]
スブーティ:
須菩提白佛言:[DS2805]
「世尊様。菩薩が福徳にとらわれないということはどういうことでしょうか?」
「世尊!云何菩薩不受福德?」[DS2806]
お釈迦様:
「スブーティよ! 菩薩は福徳のためではなく衆生を救済し、福徳を気にしない。
「須菩提!菩薩所作福德,不應貪著,[DS2807]
ゆえに私は菩薩は福徳にとらわれないと説くのだ。」
是故說不受福德。」[DS2808]
威儀寂静分第二十九
お釈迦様:
「スブーティよ! もしある人が如来の四威儀(行・住・坐・臥の四種の起居動作)を見て、『如来は歩いたり止まったり座ったり寝たりしたことがあります』と言うなら、
「須菩提!若有人言:『如來若來若去、若坐若臥。』[DS2901]
その人は私の教えが分かっていない。なぜなら、
是人不解我所說義。何以故?[DS2902]
如来は我相を断ち切っており、心が静寂で、真如の性のように去来のない。ゆえに如来と呼ばれるからだ。」
如來者,無所從來,亦無所去,故名如來。」[DS2903]
一合理相分第三十
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある善良な男女が三千大千世界を打ち砕いて微塵にした。お前はどう思うか?
「須菩提!若善男子、善女人,以三千大千世界碎為微塵,於意云何?[DS3001]
それらの微塵の数量は多いだろうか?」
是微塵眾寧為多不?」[DS3002]
スブーティ:
「世尊様。その数量はとても多いです。
「甚多,世尊![DS3003]
しかし、もしそれらの微塵が実在であれば、世尊様はそれらを微塵と呼びません。なぜかというと、
何以故?若是微塵眾實有者,佛則不說是微塵眾。所以者何?[DS3004]
世尊様のおっしゃる微塵は、実在ではなく、仮に微塵の名をつけたものです。
佛說微塵眾,則非微塵眾,是名微塵眾。[DS3005]
また、世尊様のおっしゃる三千大千世界は、実在ではなく、仮に世界の名をつけたものです。
世尊!如來所說三千大千世界,則非世界,是名世界。[DS3006]
これはいったいどういう意味でしょうか?
何以故?[DS3007]
もし世界が実在であれば、つまり一合相(切り離すことのできない一つの個体)であり、粉砕されて微塵になることはできません(同じように、もし微塵が実在であれば、微塵を集めて世界になることもできない。世界でもなく、微塵でもない)。
若世界實有者,則是一合相。[DS3008]
世尊様のおっしゃっる一合相は、結合でもなく、結合でないのでもなく、仮に一合相の名をつけたものです。」
如來說一合相,則非一合相,是名一合相。」[DS3009]
お釈迦様:
「スブーティよ! 一合相は言葉では言い表せない。凡人はその相にとらわれて、理解できないのだ。」
「須菩提!一合相者,則是不可說,但凡夫之人貪著其事。」[DS3010]
知見不生分第三十一
お釈迦様:
「スブーティよ! もしある人が、『世尊は我見・人見・衆生見・寿者見を語りました』と言ったら、お前はどう思うか?
「須菩提!若人言:『佛說我見、人見、眾生見、壽者見。』須菩提!於意云何?[DS3101]
その人は私の教えが理解できているか?」
是人解我所說義不?」[DS3102]
スブーティ:
「世尊様。その人は世尊様のお教えが理解できていません。なぜなら、
「世尊!是人不解如來所說義。何以故?[DS3103]
世尊様はすでに我相・人相・衆生相・寿者相を断ち切っておられ、衆生を教化するために我見・人見・衆生見・寿者見を説いておられますが、ご自分は我見・人見・衆生見・寿者見を抱かれていないからです。」
世尊說我見、人見、眾生見、壽者見,即非我見、人見、眾生見、壽者見,是名我見、人見、眾生見、壽者見。」[DS3104]
お釈迦様:
「スブーティよ! 無上正等覚の心を発した人はすべてについて、
「須菩提!發阿耨多羅三藐三菩提心者,於一切法,[DS3105]
実相のまま知り、実相のまま見、実相のまま信じて理解すべきだ。誤った知見を生じてはならない。スブーティよ!
應如是知,如是見,如是信解,不生法相。須菩提![DS3106]
法相(物事の相)というのは、有でもなく(本質が空である)、無でもなく、仮に法相の名をつけたものだ。」
所言法相者,如來說即非法相,是名法相。」[DS3107]
応化非真分第三十二
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある人が無量の阿僧祇の世界を満たすような数量の七宝を人々に施し、
「須菩提!若有人以滿無量阿僧祇世界七寶持用布施,[DS3201]
一方で、ある善良な男女が菩薩の心を発し、この経典を読んだり、他人に演説したり、教義を実行したりするなら、それがたとえ経典中の四行詩だけでも、
若有善男子、善女人,發菩薩心者,持於此經,乃至四句偈等,受持讀誦,為人演說,[DS3202]
後者が積んだ福徳は、前者の布施から積んだ福徳に勝つのだ。
其福勝彼。[DS3203]
では、どのように他人に演説するだろうか?
云何為人演說?[DS3204]
それは相にとらわれず、心が動かずに他人に演説するのだ。なぜなら、
不取於相,如如不動。何以故?[DS3205]
(四行詩の二)
あらゆる有為の法(因縁によって生滅する物事)は、
一切有為法,[DS3206]
夢・幻・泡・影のようだ。
如夢、幻、泡、影,[DS3207]
また朝露・稲妻のようだ。
如露亦如電,[DS3208]
このように観察すべきなのだ。」
應作如是觀。」[DS3209]
これで、お釈迦様の説法が終わりました。
佛說是經已,[DS3210]
スブーティ尊者及び比丘たち・比丘尼(出家した女性弟子)たち・
長老須菩提及諸比丘、比丘尼、[DS3211]
優婆塞(男性の在家信者)たち・優婆夷(女性の在家信者)たち・
優婆塞、優婆夷,[DS3212]
すべての天人たち・人々・阿修羅たちは、
一切世間天、人、阿修羅,[DS3213]
世尊の教えを聞いて、皆うれしく思って、経典を信じて拝受し、恭しく教えを実行しました。
聞佛所說,皆大歡喜,信受奉行。[DS3214]
〈全経文完〉
【金剛経】
化無所化分第二十五
お釈迦様:
「スブーティよ! お前は、『世尊は衆生を導くという思いがある』と考えてはならない。なぜかというと、
「須菩提!於意云何?汝等勿謂如來作是念:『我當度眾生。』須菩提!莫作是念。何以故?[DS2501]
実は如来は衆生を導いたことはなく、
實無有眾生如來度者,[DS2502]
もし如来が衆生を導こうと思うなら、如来は我相・人相・衆生相・寿者相にとらわれるからだ。スブーティよ!
若有眾生如來度者,如來則有我、人、眾生、壽者。須菩提![DS2503]
如来は『私』と言うが、実はすでに我相を断ち切っている。
如來說:『有我者,則非有我,[DS2504]
しかし、凡人は我相にとらわれている。
而凡夫之人以為有我。』[DS2505]
聞きなさい。もともと凡人は仏の本性が備わっていて、もし悟りを開いたら、もう凡人ではない。」
須菩提!凡夫者,如來說則非凡夫。」[DS2506]
法身非相分第二十六
お釈迦様:
「スブーティよ! お前はどう思うか?
「須菩提!於意云何?[DS2601]
『三十二相の姿を見ることによって如来を見る』というのは正しいか?」
可以三十二相觀如來不?」[DS2602]
スブーティ(意味を誤ってとらえた):
須菩提言:[DS2603]
「正しいです。世尊様。」
「如是,如是!以三十二相觀如來。」[DS2604]
お釈迦様:
「スブーティよ! 三十二相の姿を見ることによって如来を見る、もしそれが正しいなら、
佛言:「須菩提!若以三十二相觀如來者,[DS2605]
転輪聖王も同様に如来である。」
轉輪聖王則是如來。」[DS2606]
スブーティ:
須菩提白佛言:[DS2607]
「申し訳ございません。世尊様。私が世尊様のお教えを理解したところによると、三十二相の姿を見ることによって如来を見るべきではないのです。」
「世尊!如我解佛所說義,不應以三十二相觀如來。」[DS2608]
その時、お釈迦様は次の詩(四行詩の一)を読みました。
爾時,世尊而說偈言:[DS2609]
「もし色や形を見ることによって如来を見たり、
「若以色見我,[DS2610]
声を聞くことによって如来の教えを求めたりするなら、
以音聲求我,[DS2611]
その人は邪道に入り、
是人行邪道,[DS2612]
如来の真実の姿が見られない。」
不能見如來。」[DS2613]
無断無滅分第二十七
お釈迦様:
「スブーティよ! もしお前が、『世尊は無上正等覚の境地に至った。しかし、それは三十二種類の浄行(清浄な行い)の修行のおかげではない』と思うなら、それは間違いだ。
「須菩提!汝若作是念:『如來不以具足相故,得阿耨多羅三藐三菩提。』[DS2701]
『世尊は無上正等覚の境地に至った。しかし、それは三十二種類の浄行の修行のおかげではない』と思ってはいけない。
須菩提!莫作是念。如來不以具足相故,得阿耨多羅三藐三菩提。[DS2702]
スブーティよ!よく聞きなさい!
須菩提![DS2703]
『すべては空であり、断滅(すべてはただ一生があり、最後に絶えてなくなる。ゆえに前後の因果はないこと)であり、ゆえに修行の必要がない。無上正等覚の境地に至った如来はこのように理解している』と思ってはいけない。なぜかというと、
汝若作是念:『發阿耨多羅三藐三菩提者,說諸法斷滅相。』莫作是念。何以故?[DS2704]
無上正等覚の境地に至った如来は、『すべては不生不滅であり、常(永久不変の存在があること)でもなく、断滅でもない』と説いているからだ。」
發阿耨多羅三藐三菩提心者,於法不說斷滅相。」[DS2705]
不受不貪分第二十八
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある菩薩は恒河沙の世界を満たすような数量の七宝を人々に施し、
「須菩提!若菩薩以滿恒河沙等世界七寶布施;[DS2801]
一方、別の菩薩はすべてが無我であると知り、忍辱波羅蜜の修行を達成したとすると、
若復有人知一切法無我,得成於忍,[DS2802]
後者の菩薩が積んだ功徳は、前者の菩薩が積んだ功徳に勝つのだ。なぜかというと、
此菩薩勝前菩薩所得功德。須菩提![DS2803]
後者の菩薩は福徳にとらわれないからだ。」
以諸菩薩不受福德故。」[DS2804]
スブーティ:
須菩提白佛言:[DS2805]
「世尊様。菩薩が福徳にとらわれないということはどういうことでしょうか?」
「世尊!云何菩薩不受福德?」[DS2806]
お釈迦様:
「スブーティよ! 菩薩は福徳のためではなく衆生を救済し、福徳を気にしない。
「須菩提!菩薩所作福德,不應貪著,[DS2807]
ゆえに私は菩薩は福徳にとらわれないと説くのだ。」
是故說不受福德。」[DS2808]
威儀寂静分第二十九
お釈迦様:
「スブーティよ! もしある人が如来の四威儀(行・住・坐・臥の四種の起居動作)を見て、『如来は歩いたり止まったり座ったり寝たりしたことがあります』と言うなら、
「須菩提!若有人言:『如來若來若去、若坐若臥。』[DS2901]
その人は私の教えが分かっていない。なぜなら、
是人不解我所說義。何以故?[DS2902]
如来は我相を断ち切っており、心が静寂で、真如の性のように去来のない。ゆえに如来と呼ばれるからだ。」
如來者,無所從來,亦無所去,故名如來。」[DS2903]
一合理相分第三十
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある善良な男女が三千大千世界を打ち砕いて微塵にした。お前はどう思うか?
「須菩提!若善男子、善女人,以三千大千世界碎為微塵,於意云何?[DS3001]
それらの微塵の数量は多いだろうか?」
是微塵眾寧為多不?」[DS3002]
スブーティ:
「世尊様。その数量はとても多いです。
「甚多,世尊![DS3003]
しかし、もしそれらの微塵が実在であれば、世尊様はそれらを微塵と呼びません。なぜかというと、
何以故?若是微塵眾實有者,佛則不說是微塵眾。所以者何?[DS3004]
世尊様のおっしゃる微塵は、実在ではなく、仮に微塵の名をつけたものです。
佛說微塵眾,則非微塵眾,是名微塵眾。[DS3005]
また、世尊様のおっしゃる三千大千世界は、実在ではなく、仮に世界の名をつけたものです。
世尊!如來所說三千大千世界,則非世界,是名世界。[DS3006]
これはいったいどういう意味でしょうか?
何以故?[DS3007]
もし世界が実在であれば、つまり一合相(切り離すことのできない一つの個体)であり、粉砕されて微塵になることはできません(同じように、もし微塵が実在であれば、微塵を集めて世界になることもできない。世界でもなく、微塵でもない)。
若世界實有者,則是一合相。[DS3008]
世尊様のおっしゃっる一合相は、結合でもなく、結合でないのでもなく、仮に一合相の名をつけたものです。」
如來說一合相,則非一合相,是名一合相。」[DS3009]
お釈迦様:
「スブーティよ! 一合相は言葉では言い表せない。凡人はその相にとらわれて、理解できないのだ。」
「須菩提!一合相者,則是不可說,但凡夫之人貪著其事。」[DS3010]
知見不生分第三十一
お釈迦様:
「スブーティよ! もしある人が、『世尊は我見・人見・衆生見・寿者見を語りました』と言ったら、お前はどう思うか?
「須菩提!若人言:『佛說我見、人見、眾生見、壽者見。』須菩提!於意云何?[DS3101]
その人は私の教えが理解できているか?」
是人解我所說義不?」[DS3102]
スブーティ:
「世尊様。その人は世尊様のお教えが理解できていません。なぜなら、
「世尊!是人不解如來所說義。何以故?[DS3103]
世尊様はすでに我相・人相・衆生相・寿者相を断ち切っておられ、衆生を教化するために我見・人見・衆生見・寿者見を説いておられますが、ご自分は我見・人見・衆生見・寿者見を抱かれていないからです。」
世尊說我見、人見、眾生見、壽者見,即非我見、人見、眾生見、壽者見,是名我見、人見、眾生見、壽者見。」[DS3104]
お釈迦様:
「スブーティよ! 無上正等覚の心を発した人はすべてについて、
「須菩提!發阿耨多羅三藐三菩提心者,於一切法,[DS3105]
実相のまま知り、実相のまま見、実相のまま信じて理解すべきだ。誤った知見を生じてはならない。スブーティよ!
應如是知,如是見,如是信解,不生法相。須菩提![DS3106]
法相(物事の相)というのは、有でもなく(本質が空である)、無でもなく、仮に法相の名をつけたものだ。」
所言法相者,如來說即非法相,是名法相。」[DS3107]
応化非真分第三十二
お釈迦様:
「スブーティよ! 例えば、ある人が無量の阿僧祇の世界を満たすような数量の七宝を人々に施し、
「須菩提!若有人以滿無量阿僧祇世界七寶持用布施,[DS3201]
一方で、ある善良な男女が菩薩の心を発し、この経典を読んだり、他人に演説したり、教義を実行したりするなら、それがたとえ経典中の四行詩だけでも、
若有善男子、善女人,發菩薩心者,持於此經,乃至四句偈等,受持讀誦,為人演說,[DS3202]
後者が積んだ福徳は、前者の布施から積んだ福徳に勝つのだ。
其福勝彼。[DS3203]
では、どのように他人に演説するだろうか?
云何為人演說?[DS3204]
それは相にとらわれず、心が動かずに他人に演説するのだ。なぜなら、
不取於相,如如不動。何以故?[DS3205]
(四行詩の二)
あらゆる有為の法(因縁によって生滅する物事)は、
一切有為法,[DS3206]
夢・幻・泡・影のようだ。
如夢、幻、泡、影,[DS3207]
また朝露・稲妻のようだ。
如露亦如電,[DS3208]
このように観察すべきなのだ。」
應作如是觀。」[DS3209]
これで、お釈迦様の説法が終わりました。
佛說是經已,[DS3210]
スブーティ尊者及び比丘たち・比丘尼(出家した女性弟子)たち・
長老須菩提及諸比丘、比丘尼、[DS3211]
優婆塞(男性の在家信者)たち・優婆夷(女性の在家信者)たち・
優婆塞、優婆夷,[DS3212]
すべての天人たち・人々・阿修羅たちは、
一切世間天、人、阿修羅,[DS3213]
世尊の教えを聞いて、皆うれしく思って、経典を信じて拝受し、恭しく教えを実行しました。
聞佛所說,皆大歡喜,信受奉行。[DS3214]
〈全経文完〉